mixiユーザー(id:3341406)

2024年06月30日12:00

114 view

賀茂真淵記念館講座「画家と戦争」第1回 �◆粗E鳥娘B�

(続き)

◆太平洋戦争下で戦争画を描いた画家達〜その1

・横山大観(1868-1958/水戸)
東京美術学校(現東京藝大)第1期生。岡倉天心に師事。日本美術院に参加、院展中心に活動。
天心没後再興日本美術院を主宰。近代日本画の一典型を創りだした。
1940年 「皇紀2600年」を記念し「奉祝記念展」に〈海にちなむ十題〉〈山にちなむ十
    題〉を出品。
    その売上金を軍に寄付。それは2機ずつの戦闘機となり、「大観号」と名付けら
    れた。
1943年 日本美術報国会の会長に就任。

大観は戦闘に関わる絵は描かなかったが、大日本帝国を象徴する富士山等を頻繁に描き、戦争に協力した。

・藤田嗣治(1886-1968/東京)
東京美術学校西洋画科卒後、渡仏、モンパルナスにアトリエ。パリでは繊細な線描と乳白色の肌色が評価。
1929年 帰国。
1930年 再びパリへ。北米南米旅行。
1933年 帰国。海軍嘱託となり、従軍画家として中国に渡る。
1939-40年 渡仏。帰国。
以後、帝国芸術院会員となり、陸軍の依頼により各地の戦線に派遣され、大型の戦争記録画を多数制作。
1945年 終戦。渡仏。
1955年 日本国籍抹消、フランス国籍取得。
1959年 ランス大聖堂で洗礼。レオナール・フジタと改名。
1968年 スイス・チューリヒ州立病院で没。

[藤田の戦争画作品]
《南昌飛行場の焼き討ち》《武漢進撃》《十二月八日の真珠湾》《シンガポール最後の日(ブキテマ高地)》
《ソロモン海域に於ける米兵の末路》《アッツ島玉砕》《血戦ガダルカナル》《神兵の救出到る》
《サイパン島同胞臣節を全うす》《薫空挺敵陣に強行着陸奮戦す》他
タイトルだけでも制作者の意図が見える。

1938年以降、海洋美術展、聖戦美術展、大東亜戦争美術展、決戦美術展、陸軍美術展、戦争美術展、戦争記録画展等に次々出品。
藤田は各展における自身の展示品の脇に軍服で立ち、銭が投じられると、深々と礼をしたとの事。

[自身の戦争画に対する考え]
戦時中の「美術」誌1944年5月号での発言。
「戦争画を描く第一の要件は、作者そのものに忠節の精神がみなぎって居らなくてはならぬ。幕末当時の勤皇憂国の志士の気魄がなくてはならぬ。(中略)今日の情勢においては、戦争完遂以外には何物もない。我々は、少なくとも国民がこぞってこの国難を排除して最後の勝利に邁進する時に、我々画家も、戦闘を念頭から去った平和時代に気持ちで作画することも、また作品を見る人をして戦争を忘れしめるような時期でもない。国民を鞭ち、国民を奮起させる絵画または彫刻でなくてはならぬ。戦争は美術を停滞せしめるものとか戦争絵画は絵画を衰退せしめると考えた人もあるけれども、かえってその反対に、この大東亜戦争は日本絵画史において見ざる一大革命を呼び起こして、天平時代、奈良時代また桃山時代を代表するような昭和時代の一大絵画の様式を創造した。(中略)今日我々が最も努力し甲斐あるこの絵画の難問題を、この戦争のおかげによって勉強し得、さらにその絵が戦争の戦意高揚のお役にも立ち、後世にも保存されるということを思ったならば、我々今日の画家ほど幸福なものはなく、誇りを感ずるとともに、その責任の重さはひしひしと我等をうつものである。」

たくさんの戦争画を描いた藤田を救おうとした人は多々いるが、この文章は救いようがない。おしゃべりは消えてなくなっても、書かれたものは永遠に残る。

昨年102歳で亡くなる直前迄抽象画を描き続け、また戦没画学生達の作品を各家庭を巡って収集しようと起ち上がった野見山暁治は藤田についてこう書いている。
「藤田さんという人は非常に素直な人でした。人を信じてはしょっちゅう騙されていた。私たちにとってフジタの帰化は、一種のコスモポリタンとしての見事な資格を、人格的に掴みとったように思っていたが、どこの土地の人間でもないただの旅人ではなかったのか。常にライトに当たっていなければ生きゆけない人生がそこにあるようだ。アッツ島もパリも光だった。帰化さえ光にしたがっている。
戦争がみじめな敗け方で終わった日、藤田は邸内の防空壕に入れてあった、軍部から依頼されて描いた戦争画を全部アトリエに運び出させた。そうして画面に書き入れてあった日本起元号、題名、本人の署名を絵具で丹念に塗りつぶし、新たに横文字でFUJITAと書き入れた。先生、どうして、と私の女友だちは訝しがった。何しろ戦争画を描いた絵描き達はどうなることかと生きた心地もない折だった。なに今まで日本人にだけしか見せられなかったが、これからは世界の人に見せなきゃならんからね、と画家は臆面もなく答えたという。つまりフジタにとって戦争は、たんにその時代の風俗でしかなかったのかも知れない。」

◆太平洋戦争下で戦争画を描いた画家達〜その2

・宮本三郎(1905-74)
川端画学校で藤島武二に学ぶ。従軍画家として活動した。二科会会員。
1943年 《山下、パーシバル両司令官会見図》で芸術院賞を受ける。
他に、《南苑攻撃図》《香港ニコルソン附近の激戦》《海軍落下傘部隊メナド奇襲》《シンガポール陥落》《萬朶隊比島沖に奮戦す》等。

以下、戦時中1942年夏の宮本の発言、
「時局柄戦争画を描かなければならないのはつらいでしょうね、というふうなことを言う人がある。僕等が心ならずも戦争画を描いているのだと思って、同情してくれるんです。僕はそれに対して、戦争画が面白いから描いているんだと答えていますが、本当にそうなんです。決して迎合するとか、やむを得ずやっているとかいうのではなく、面白いから描く。」

・鶴田吾郎(1890-1969)
《神兵パレンバンに降下す》《義勇隊を送る高砂族》《ラバウル鉄壁の守備》等。
同じく1942年夏の鶴田の発言、
「戦争中に戦争画を描き、平和裡に平和な主題を描くのはあたりまえだ。我々は画家だから、描きたいものは何でも描く。」
「とにかく今度の戦争は日本の歴史始まって以来のことなんだし、武力戦と建設戦とが併行して行われているんだから、文化方面がうんと働く余地があるわけだな。我々は画家だから画家としてご奉公することがいくらでもあるんだ。」

◆画家達の言動・姿勢と一般民衆

国家総力戦体制下の戦争は、すべてを統制し、動員した。
一般国民は言う迄もなく、画家・作家・音楽家等も統制、動員の対象だった。殆どの人は、統制と動員に抵抗できず、大日本帝国という国家に盲従した。
戦争画は戦意高揚の役割を押し付けられた。新聞、雑誌、写真、教科書、紙芝居等も大日本帝国の戦争遂行を支え推進した。
殆どの画家は自ら描いたものが戦意高揚に役立ち、戦争協力につながる事を自覚していた。展覧会等を通して、彼らの戦争画は多くの民衆の目に触れた。
そして、一般民衆もどんどん好戦的になっていった。

◆戦意高揚につながらない絵

極く一部に戦争高揚につながらない絵を描いていた画家がいた。
・「新人画会」
メンバーは井上長三郎、松本竣介、麻生三郎、寺田政明等。
針生一郎の「新人画会」評、
「当時の画家たちがみんな戦争画に突き進んでいく中で、それに抵抗して自分たちの描きたいものだけを描き、芸術家の良心を貫いた人たち」。
「個人よりも集団が優先される時代で、その中で個人の存在、個人のものの見方というものを最後まで尊重した」。

・「日本美術会」
「新人画会」の人々は戦後「日本美術会」を組織し、画家の戦争責任について考えようとし、美術界の民主的発展を目指した。
松本竣介の発言、
「(戦争責任を)明確にすることは絶対に必要」であるとし、「積極的な戦争への協力者、順応者、迎合者、傍観者、批判者、反対者を明確に区別して公表する。言動、作品、行動を公刊物で調べる」と。
現在も日本美術会は存続。「美術運動」誌を刊行し、毎年「アンデパンダン展」を開催している。

・松本竣介(1912-48/東京)
2歳の時、父の仕事で岩手県に移った竣介は、1925年盛岡中学校在学中に、病気のため聴覚を失う。
のちに絵画に目覚め、3年で中退し上京、太平洋画会研究所に通い本格的に絵の勉強を始める。
1941年、美術雑誌「みずゑ」に『生きてゐる画家』という文を寄稿し、国家と芸術家のあり方に異論を唱えた。

〈参〉「上京〜松本竣介展/世田谷美術館」(2013.1.11記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1888605932&owner_id=3341406

・小野竹喬(1889-1979)
1903年 竹内栖鳳に師事。
1916年 《島二作》が文展特選。
1917年 文展落選。同展の審査方法に疑問を持つ。
1918年 同じ思いを持つ者達(土田麦僊,村上華岳他)と国画創作協会結成。
1921年 渡欧。
1936-43年 母,次女病没、長男26歳で戦死。
1944年 《月》制作。雲の向こうに隠れゆく月は、息子を失った悲しみの表現。
フォト

これ以降、戦時中にも関わらず、旭日や富士でなく、雲が竹喬の重要なモチーフとなる。
竹喬の雲は、積極的でないにせよ、戦争に対するある姿勢の表現となった、と考えられる。
 
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年06月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30