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2025年03月04日21:33

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「松本竣介 街と人」/大山崎山荘美術館��

3/1(土)、10:31発のひかりで浜松を出た。
11:37京都着、JR京都線に乗り換えて山崎駅に着いたのは12:08。
まずは「大山崎ふるさとセンター」へ。

現在「大山崎山荘美術館」では企画展「松本竣介 街と人〜冴えた視線で描く」を開催中。
・会期 1/4〜4/6

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大山崎町は京都府の南端に位置し、少し下れば大阪府に入る。山荘美術館は2府を分かつ天王山の中腹にある。

同展の関連イベントとして、当日、講演会がふるさとセンターで行われる事になっており、私は運よく事前抽選に当選した。
3階の会場には80程の席が準備されていた。
・講師 田中淳(1955- /大川美術館館長)
・講演タイトル「松本竣介の魅力〜線の詩情」

大川美術館は群馬県桐生市にあり、同市出身の実業家 大川栄二(1924-2008)のコレクションを中心に運営している。所蔵品は日本の近代洋画を中心に約6,500点、その核になっているのが松本竣介作品だとの事。大川栄二が絵画コレクションを開始したきっかけとなったのが、竣介の《ニコライ堂の横の道》(1941)だった。

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その当時、竣介の名はまだ一般にはあまり知られていなかった。
本展は大川美術館で、竣介生誕110年を記念して開催された「松本竣介デッサン50」('23.1.14-3.12)をベースにしている。

私は2013年1月に松本竣介展を世田谷美術館で観ている。それは生誕100周年を記念したもので、量質共に大変優れたものだった。油絵約120点、素描類約120点、資料約180点、総計420点に及んでいた。
松本竣介(1912-48)の僅か36年の生涯と画業、そのベーシックな側面については、以下レポートを参照頂けたらありがたい。
・「上京〜 松本竣介展/世田谷美術館」(2013.1.11記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1888605932&owner_id=3341406&org_id=1888732153

田中淳は、松本竣介の魅力を、世代のずれた3人の画家達の視点から解説した。
 曾宮一念(1893-1944)/岡鹿之助(1898-1978)
 松本竣介(1912-1948)/中野淳(1925-2017)

曾宮一念は松本竣介より19歳程年上。東京美術学校(現 東京藝大)卒。一方、竣介はアカデミックな美術教育は受けていない。
曾宮は1919〜21年頃、中村彝に奨められて現在の新宿区下落合(*1)に移り住む。近在の佐伯祐三とも交流が始まった。
1936年、これも近くに住んでいた作家 林芙美子の紹介により、同年下落合に新居を構えたばかりの竣介夫妻とも知り合いになる。
竣介はその自宅アトリエに「綜合工房」という、およそ芸術的でない名を付け、月刊雑誌「雑記帳」を創刊。編集は妻 禎子が行った。(14号迄で廃刊。)

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年齢差の大きかった曾宮だが、竣介の依頼を快く受け、随筆を寄稿し、挿絵も描いた。
竣介は大戦下の1941年、軍部による美術干渉に抗議した『生きてゐる画家』を始めとして、文筆活動も積極的に行った。

 (*1)この辺りに多数ある作家・画家の記念館を、私は2023年11月に訪れている。
・「例会2日目�� 漱石山房〜林芙美子記念館」(2023.12.2記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986462988&owner_id=3341406
・「例会2日目�� 佐伯祐三アトリエ記念館〜中村彝アトリエ記念館」(2023.12.3記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986466751&owner_id=3341406

14歳年上の岡鹿之助は東京美術学校洋画科で岡田三郎助に師事。1924年卒業後、渡仏。特にマティエールを学んだ。
1948年に亡くなった竣介の遺作展では、岡は「美術手帖」14号/1949年2月号に、以下のような文章を寄稿した。
…松本竣介は「まれに見る鋭敏な感受性をもった画家であった。繊麗な感覚そのものを見るような彼の線は、(略)ハープの弦のように強鞭に張って、哀愁の詩をかなでる。概して繊細な感覚による仕事は、この國ではとかくひ弱い現われかたに傾きやすいのに、彼のファクチュウル(絵具の層)は堅牢に築かれ、(略)特筆すべきマティエールの魅力を生じている。彼の愛情のこまやかさは制作のモティフに注がれるだけでなく、素材たる絵具のうちにも徹し切っている。身を以て油絵具を躰質化しようとした努力は一生を通じて変らない。
(略)作家の歩みは、低迷期にあっても、決して自己本来の姿を見失うことなく、苦悩に耐えながら、むしろ明るい、清澄な夢を純粋な造形の言葉に置き代えようと命をかけていた(略)。」
竣介の作品は、殊に線描について評価が高いが、岡はマティエールについても高く評価した。
1969年、岡は日本芸術院会員となり、1972年には文化勲章を受けた。

中野淳は竣介より13歳年下だが、1943年、第2回新人画会展に出品された竣介の《運河風景》に感銘、彼のアトリエを訪ね、以後親しく付き合い、喜んで作品批評も受けた。
1947年には、竣介の依頼により、通信教育の育英社の仕事も手伝った。
竣介遺作展では、中野も発起人の1人となっている。
中野はまた、1点しか存在しなかった竣介の版画作品《二つの顔》(1946)を一時期持っていた。それは珍しくもガリ版による版画でありながら、実に柔らかな線を有していた。

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1999年、中野は『青い絵具の匂い〜松本竣介と私』を中公文庫から刊行。そこには上の版画制作の経緯が書かれている。
…1946年、竣介と麻生三郎、舟越保武の「三人展」に向けた準備の中での事だ。中野が見ている前で、竣介は育英社の事務机で、突然ザラ紙の裏に赤鉛筆でデッサンを始めた。と、5分程で、男と女か、女と女か、二重の顔が描きだされた。
竣介は立ち上がり、出窓の謄写版の上にそのデッサンを置くと、鉄筆でガリガリと写し始めた。
「今度の三人展のポスターにしようと思ってね」と竣介は言い、ローラーにインクを付けて刷った。
あがった5〜6枚を見た中野は、ついでしゃばって「1枚下さい」と。
竣介は「いいよ、サインもしてあげる。これは僕の(初めての)版画だな」と微笑んだ。
同年11月、銀座の日動画廊で「三人展」は開催されたが、当のポスターは何処かへ紛失してしまった。残ったのは、中野の手許に残された1枚のザラ紙のみ。
竣介の仕事と人柄が彷彿とされるいいエピソードだ。

同い年の彫刻家で、伴に岩手県に縁のあった 舟越保武(1912-2002)は、竣介の早過ぎる死に寄せて「類なく冴えた画家だった」と語った。
おそらく彼の言葉から、本展の副題「冴えた視線で描く」はイメージされたのだろう。

曾宮一念、岡鹿之助、中野淳らの話から分かるように、竣介は学歴や年齢差に囚われる事なく、自由闊達な付き合いをした。
相手は同業者だけではない、「雑記帳」には、佐藤春夫、瀧口修造、萩原朔太郎、室生犀星ら著名作家も寄稿している。


(続く)
 
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