幕末から明治にかけて欧州に留学し、のち海軍中将、男爵、貴族院議員となり「日本造船の父」とも呼ばれた赤松則良(1841-1920)。彼が晩年に住んだ磐田の邸宅址は、一部復元され、今、市立「旧赤松家記念館」となっている。
私は、12/18に続き、2/22(土)にまた行ってきた。企画展の続編が開催されているからだ。
タイトル「赤松登志子と子どもたち〜赤松家にとっての長女・登志子」
・会期 1/11〜3/30
前回の記念館訪問レポートは以下からご覧頂けたらありがたい。
「磐田の旧赤松家記念館を訪ねる (加筆)」(2024.12.19記) (*1)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989026980&owner_id=3341406
このシリーズ企画展は、また、賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」とリンクしている。
その第3回(最終回)のレポートでは、(*1)で留保した件を明らかにした。
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https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989373795&owner_id=3341406
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https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989376006&owner_id=3341406
本展では、上に記したタイトルで分かるように、森林太郎(鴎外)(1862-1922)との関係から拡げて、赤松登志子(1871-1900)という一人の人間、そしてその子供達にスポットライトを当てている。
◆登志子誕生
赤松則良と林貞(林洞海の次女)は1868(明治元)年8/20に結婚。5月半ばにオランダ留学から帰ったばかりだった。
9月に幕臣ら(赤松則良含む)は江戸から駿河・遠江に移封。
1870(明治3)年1/15、赤松家長男 範一(登志子の兄)誕生。
範一は、前回展で展示されていた林太郎と登志子の状況を父則良に報告する手紙(1890/明治23.10)にしたためた人物だ。
同年、則良は乞われて新政府に出仕。
1871(明治4)年9/14、登志子が誕生する。
則良の『日記』には明治4年「九月十四日朝、女子初生、登志と称す」とある。原文には句読点なし。
◆学歴
森鴎外記念会の機関紙「鴎外」91号(2012.7.31刊)に掲載された山崎一穎(かずひで/1938-2024)(*2)の論文によると、概略以下の通り。
…「赤松登志子が跡見女学校の卒業生である」事が分かった。
跡見女学校は1875(明治8)年1/8、日本初の私立女学校として東京に創設された。現 跡見学園。
創設者は跡見花蹊(かけい/1840-1926)。
花蹊は諸芸術(書画・華道・茶道・筝曲)を教育課程に置き、情操教育により人格形成を図り、国漢(国文・漢文)、和歌を中心とした教養をその核とした。
『跡見花蹊日記』別巻所載の「人名雑録」中に「花号名録」(華道の雅号)には「花薗 赤松とし」と記されている。(私註;「かえん」と読むのだろうか?)
同じ書に「花畦(かけい?) 遠田済子」ともある。遠田済子(とおだすみこ)は"澄"の字を当てている文書もある。
1898(明治31)年、遠田済子は登志子の兄 範一に嫁している。
尚、登志子の卒業年が分かる資料は見つかっていない。…
(*2)山崎一穎は鴎外研究の第一人者で鴎外記念会会長、島根県津和野町の鴎外記念館館長、また、跡見学園の学長及び理事長を長く務めた。
これは本展ではないが、第14回SALA(埼玉県内大学・短期大学図書館協議会)加盟図書館所蔵資料展示会/「図書館と県民のつどい埼玉2020」の報告(SALA会報No.29/2021.3.31)に、跡見学園女子大学が「跡見出身の森鴎外夫人・赤松登志子〜跡見花蹊と登志子」という展示会を行ったとある。
・会期 2020年12/16〜2021年1/11
それには山崎一穎の論文とは少々ニュアンスの異なった記述に加え、初めて聞く登志子のエピソードも掲載されている。
…まず、登志子は「跡見女学校の前身である跡見花蹊の塾」で学んだ、とし、続けてこう言う、
登志子と「本学学祖花蹊とは、1885(明治18)年12月に、一緒にクリスマスのお祝いをしたり、1886(明治19)年4月に花見に出かけたことが『跡見花蹊日記』に記載されています。この時、花蹊は45歳、登志子は15歳、微笑ましい師弟関係が伺えます。(後略)」。
花見時の年齢は、4月だとするとまだ14歳の計算になる。
◆芸術
下の写真は、前回の展覧会の展示を撮ったもの。
登志子は初代 町田杉勢(さんせい/1843-1929)から筝曲(琴)の免許状をもらっている。
町田杉勢は幕末から明治にかけた時期に活躍した筝曲家。
免許状には1886(明治19)年6/13の日付がある。跡見花蹊と花見をした年だ。
塾で国文・漢文その他を学び、芸術も嗜んで、充実した青春時代だった事だろう。
◆登志子写真1
こちらは結婚の前年1888(明治21)年4月に東京錦町の赤松邸で撮影した集合写真。
後列に立つのが則良と長男範一。
中列の中央、赤子を膝に置いているのが則良の妻 貞、その向かって右が登志子。16歳の計算になる。
森林太郎(鴎外)との結婚と急な離縁に至る経緯は上にリンクを貼った賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」�´△能颪い討い襪里如△海海任禄妬�を避ける。
(続く)
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