12/18(水)、男爵 赤松則良が晩年に住んだ磐田市の「旧赤松家記念館」に行ってきた。今年開館20周年となるそうだ。
賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」の第1回(参
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988997957&owner_id=3341406)で、講師 木村弘之が、現在森鴎外と赤松家に関する展覧会をやっていると教えてくれた。
タイトル「森鴎外と赤松家〜小説『舞姫』から探る」
・会期 11/1〜12/27
会期末が近いという事が私の背中を押し、車で高速を使って出かけた。我が家から30分程で到着する。
また、この続編となる展覧会も年明けから用意されているとの事で、流れをしっかり把握しておきたいという気持ちもあった。
今回の賀茂真淵記念館講座と、旧赤松家記念館の展覧会は、両タイトルからも分かる通り、内容は殆どイコールに近いと理解される。
森鴎外研究において、鴎外と赤松則良の長女登志子の結婚と早過ぎる離縁は、当然注目され、それなりに研究は進められてきた。
しかし、それは森家と西周の西家側から出た資料だけが材料で、登志子の赤松家から出たものはこれ迄殆どなかった。
それが、2012(平成24)年になって赤松家がある書簡を公開した。
それは赤松則良の長男で、登志子の兄 範一(はんいち)が書いたもので、海軍中将として佐世保鎮守府に赴任している父に宛てた、離縁の経緯を報告する手紙、正確に言えばその草稿である。日付は1890(明治23)年10月、離縁問題さ中の時期に書かれた。
内容は実にホットで生々しい。
この書簡公開は2012年に新聞にも取り上げられたらしいが、私は知らずにいた。
同書簡の読解も進み、書簡のレプリカと、現代語への読み下し文も、今回展示されており、私はそれらを見る事ができた。
しかし、その内容についてここで拙速にレポートする事はやめておく。
このあと、木村弘之による賀茂真淵記念館講座の第2回,3回が来年1/11と2/8に開かれるので、それを聴いた上で書く事にしたいと思っている。
今回は、旧赤松家記念館で撮った写真を何枚か紹介したい。
まず同記念館の門とレンガ塀、土蔵。明治20年代後半に建てられた当時のもの。磐田市指定文化財となっている。
1893(明治26)年に赤松は軍を予備役となったため、磐田に本籍を移し、この邸を建造した。
しかし、1897(明治38)年に貴族院議員となったため、1917(大正6)年に議員を辞める迄の間、東京と磐田を行ったり来たりしたと思われる。(但し、1912(明治45)年に妻 貞(てい)を亡くしてからは、東京に住む範一の家にいる事が多かった。)
鴎外と登志子の間の子 於菟(おと)(*)が書いた『父親としての森鴎外』には、1908(明治41)年、祖母ミネに連れられた18歳の 於菟がこの赤松邸を訪れ、則良と初めて対面する感動的な場面がある。喜んだ則良は、自慢の邸内を案内して回った、と。
(*) 於菟は両親の離婚後、鴎外方に引き取られた。
門の向かって左にあるレンガ造りの小さな建物は「門衛所」と言い、門番がここにいて来館者を監視していた。
門衛所の左にある白壁は土蔵。米蔵として使用されていた。
門の右にある、左のそれと似た形のものは「供待(ともまち)」で、赤松邸を訪れた客のお供の者や車夫等がここでしばらく待っていた。
下は門衛所のアップ。
門の柱に「旧赤松家」の名札が懸かっているのが見えるだろうか。
こちらは中に入って内側から門を撮った写真。
下は、1909(明治42)年に磐田原から邸宅を撮った乾板写真。特徴のある門が見える。
今でこそ磐田市の街中だが、当時は田畑が広がっていた。
母屋は、関東大震災で倒壊した東京の邸宅を修繕するために移動したため、現存しない。造りなおした東京の邸も、その後の東京大空襲で焼失してしまった。
門を入って正面には赤松則良の胸像と彼の生涯の概略をまとめた説明板がある。
背丈は170cmあり、当時としてはかなり大きかった。
大礼服姿の則良の写真は、喜寿の記念で撮ったものだとの事。
これを基に胸像を作成したと考えられる。
今回の特別展示は門衛所の隣の土蔵内で行われていた。
土蔵入り口とそのサイド面の写真。
そして今回のメイン展示、範一がしたためた書簡草稿のレプリカ。
取り敢えず今日はここ迄にしておく。
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