2/8(土)、賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」の第3回(最終回)を聴いた。
講師 木村弘之
第1回(2024.12.14)については以下リンク参(2024.12.15記)。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988997957&owner_id=3341406
第2回(2025.1.11)については以下リンク参(2025.1.12記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989194956&owner_id=3341406
第2回で、『舞姫』のエリスのモデルとされるエリーゼ・ヴィーゲルトが、森林太郎(鴎外)の帰朝(1888.9.8)を追うように4日後の船便で来日した事、森家の人達が彼女を説得してドイツに帰る船に乗せた(1888.10.17)事、母親 森峰らが林太郎を落ち着かせるべく赤松則良海軍中将(男爵)の長女 登志子と結婚させた(1889.2.29)事、林太郎の苦悩と『舞姫』発表(1890.1月号)、長男 於菟誕生(1890.9.13)、そして離縁(1890.11)迄、細かな事実を積み重ねて解説があった。
今回は、何故林太郎と登志子は離縁する事になったのかについて、従来は、森家及び西家(日周)側の記述による憶測が主であったが、2012(平成24)年になって赤松家側から1つの史料が公開された。それは赤松則良の長男範一(はんいち/1870-1945)、即ち登志子の1歳違いの兄(当時20歳)が、佐世保鎮守府長官として赴任中の父に事の次第を報告するために詳述した手紙の草稿で、日付は1890(明治23)年10月、離縁問題さなかである。
この史料のレプリカは、昨年12/18、私は「旧赤松家記念館」を訪れて見ている。
これには、2人の「別居に始まり、森家・西家・赤松家のやりとり、鴎外のさまよう心情などが述べられている」。
加えて、「赴任中の家長の代理であった赤松範一が克明に事実を伝えなくてはならなかった責任感、そして森家、西家を尊ぶ実直さと妹・登志子への思いやりが伝わってくる」。
(『「森鴎外・赤松登志子の離婚の経緯に関する書簡」の発見について』(2013-14森鴎外記念会刊、執筆 杉本完治より)
何しろ、明治時代の手紙文で、主語がなかったり、1文がつらつらと切れずに長く、大変読みづらいのだが、森鴎外記念館会員であり、私もこの賀茂真淵記念館講座で何度も話を聴いている杉本完治が意訳・補足した文章を頼りに、更に私がなるべく分かりやすく簡潔にその内容を紹介しようと思う。
1890年10/4、赤松登志子の母(赤松則良の妻)貞(てい)は、西周の妻升子とある会で会ったおり、林太郎と登志子の様子について話した。升子は驚き、事情を尋ねた。
範一は同日、森林太郎と登志子の新居 花園町の家に出向き、妹 登志子にその件について訊いた。すると林太郎は4〜5日前より、別の場所から職場へ直接行き帰りするようになり、花園町の家には戻らない、と言う。花園町には、林太郎の弟篤二郎・潤三郎と下女2名が残っている。
千住に住む林太郎の母峰が花園町にやって来て、篤二郎・潤三郎に林太郎の荷物をまとめさせ、彼がいる千駄木町の家に送りだし、2人と伴に帰った。下女2人は残した。
登志子はこの時に、林太郎が千駄木町に家を買ったのを知ったのである。
貞は、生まれたばかりの子(於菟)と2人で残された登志子を心配し、10/4、花園町の家にやって来て、翌10/5にかけて家の中の片づけをした。
10/5午後1時頃、貞は千住の峰に花園町へ来てもらった。
貞は峰に、産後じきの登志子をここに置いておく訳にいかない、一時、錦町の赤松家本宅に連れていきたい、が、新生児は一緒に連れていく事はできない、於菟は森家で引きとって欲しいと強く申し出た。峰は林太郎と相談の上で引きとると答え、千駄木町の家へと向かった。
しばらくして森家が車夫を花園町につかわしてきたので、於菟は下女に抱かせて引き渡した。
同じ10/5、車夫が来る前、午後2時頃、西升子が花園町に来て、西周の代理として今回の事を貞に陳謝、そのうえで、登志子自身の考えを問うた。登志子はこれ迄通り林太郎と同棲したいと返事。
西升子はそれを聞いて帰った。
貞と登志子の2人は錦町の赤松家本宅に帰った。
10/6午後、西升子が赤松家本宅にやってきて言う、西周が林太郎を呼び出したところ、同日午前11時頃林太郎が西邸にやってきて今回の件について考えを述べた、と。
その内容は以下の通り。
林太郎は登志子と気性が合わない。一緒に出歩く事も会話する事もない。こうした生活では文筆活動にも差し障りがあるので、登志子と相談し、招致の上で別居する事とした。
平素、登志子の機嫌とりなどしておけばこうならなかったが、林太郎はそういう事ができない性分だ。
今回林太郎が外に出たのは別居であって離縁ではない。花園町の家には時々往来するつもりであって、千駄木町に買った家は下宿である。林太郎の父 白仙も最近病身で、彼を千駄木町に引きとる考えであった。
登志子と子どもには下女をつけ、仕送りはするつもりでもいた。
仕事と経済面について言えば、林太郎は現在陸軍に勤めているが、上司(石黒忠悳)と考えが合わず、官職は辞めて文筆活動でいきたいと思ったが、両親が承知せず、しばらくは勤めを続ける。しかし、一生を陸軍に奉ずるつもりはない。辞職するとなると、今の段階では文筆活動だけで生計を立てる事も難しく、その時はまたどう対処するか考えたい。
西升子は、林太郎との間でこれ以上話は進展しないので、あとは赤松家で熟慮の上決定頂きたいと言い、赤松家から帰った。
範一から父則良宛の手紙の草稿は、このあと、父の帰京を待ち判断を仰ぎたいとして終わっている。
(続く)
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