mixiユーザー(id:21258650)

2024年11月06日07:19

248 view

ストロング小林さん追悼最終章(855)

「キン肉マン」はゆでたまご作の漫画で79年より週刊少年ジャンプで連載開始され、83年からは日本テレビ系列でアニメ番組として放送されました。

ヒーローものに加えて作者が大のプロレス、格闘技ファンであったことからプロレスカラーも強い作品で登場キャラクターもプロレス色の強いものも多数おり、格闘シーンもプロレスをモチーフとして描かれていました。

70年代以降に生まれたプロレスファンの方々は実際のプロレスを見るきっかけがキン肉マンだった方もかなりの割合を占めています。

私は少年ジャンプに連載開始された時は既に先に本物のプロレスをテレビ、会場で見ており直撃世代ではなく、キン肉マンに関しては正直ほとんど漫画もアニメも見ていません。

ですがキン肉マンが少年プロレスファンの新規動員に大きく貢献していたことは事実でした。

新日本プロレスとテレビ朝日では前年のタイガーマスクの引退により減少した少年ファンの新規獲得を目的としてゆでたまご、集英社側とキン肉マンの登場について水面下で交渉を続け、内諾を得ていましたが、アニメを放送していたのが全日本プロレスを放送している日本テレビであり、最終的には日本テレビ側が反対し実現には至らず。

新日本プロレスはタイガーマスクを成功させたノウハウを持っており、アニメのキャラクターでもしっかりした試合内容を見せればキワモノにならず観客やテレビ視聴者の支持を得られる自信を持っていただけに交渉決裂は残念な結果に終わりました。

キン肉マンに予定されていたのはデビュー6年の平田淳二(淳嗣、当時27歳)でした。平田は78年8月26日にデビュー。82年にメキシコ遠征に出発。翌83年にはカナダ・カルガリーに転戦し、頭をモヒカン刈りにしてネイティヴアメリカン・ギミックのサニー・ツー・リバーに変身。

メインイベンターにのし上がり、帰国前の84年7月11日(現地時間)にはカルガリー・サドルドームで行われたスチュ・ハートプロモーション年間最大のビッグショー「カルガリー・スタンビート」(ロデオの大会と同時に開催される)ではマスクド・スーパースターの持つIWA世界ヘビー級王座(かつて国際プロレスに存在したもの及びミル・マスカラスの個人所有となっている王座とは別)に挑戦し2-1で敗れはしましたが健闘し観客を沸かせています。

84年8月24日後楽園ホールでの「ブラディ・ファイト・シリーズ」開幕戦に謎のマスクマンとして2年ぶりに日本のリングに立った平田は目の部分だけ露出したスキー帽マスクを被っていましたが、その下にはボツになったキン肉マンのマスクを着用していたことは後日有名になるエピソードでした。

マスクマンは「ストロング・マシン」として新日本プロレスのリングに上がることになります。

謎のマスクマンが登場した後のセミファイナルは長州力とボブ・バックランドのシングルマッチ。髪の毛を短いクルーカットにし、アマレス風のショルダータイプのコスチュームでバックランドが登場。

革命戦士になる前に何回か対戦していますが全てバックランドの勝利に終わっていますが、この日は長州も一歩も退かず互角の攻防を見せました。

長州は再三サソリ固め狙いにいきましたがバックランドは強靭な足腰でこれを許さず。

長州がコーナーに上がったところをバックランドが捉え、肩の上に担ぎ上げてエアプレーン・スピン。そのまま両者同体で場外に転落、16分53秒、両者リングアウトの引き分けとなりました。

メインイベントは坂口征二&藤波辰巳組vsロジャー・スミス&デューク・マイヤース組。マイヤースのブレーンバスターを切り返した藤波が逆さ押さえ込みで勝利。

Rスミス、マイヤース組は随所にベテランらしいケレン味たっぷりのいいラフファイトを見せたものの、70年代ならこれで十分だったと思いますが、WWFのスーパースター達が大挙来日するようになっていたこの時期の新日本では二線級だったのは否めずでした。

その他の外国人勢はトニー・セントクレアーが小林邦昭にフェンスアウトの反則勝ち。スコット・フェリス、ジェリー・モロー組は谷津嘉章、寺西勇組と対戦しフェリスが寺西をカナディアン・バックブリーカーでギブアップさせています

8月25日、新日本プロレスの坂口副社長は全日本プロレスとの業務提携を行った新日本プロレス興行の大塚直樹社長に対し、9月一杯で取引解消する旨の絶縁宣言をしました。

新日本プロレス興行には新日本プロレスの興行はもう売らないということです。

翌8月26日には田園コロシアムで全日本プロレスと新日本興行の業務提携第1弾興行が開催され、13,500人超満員発表の観客を動員しています。

13,500人という数字は同所の興行の事実上最高記録である81年9月23日の新日本プロレスの大会を意識した発表であることは間違いないところでした。

全日本のメインイベントはスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ組に馬場ドリー・ファンク・ジュニア組が挑戦したPWF世界タッグ選手権試合で前年引退し、馬場、ドリー組のマネージャーに付いたテリー・ファンクが介入しての反則勝ちでハンセン、ブロディ組が防衛。

馬場&ドリー組の助太刀として介入したものの、ハンセン&ブロディ組に返り討ちに遭ったテリーは復讐の為に復帰を示唆する発言を試合後に行い、(実際にこの年の11月、世界最強タッグ決定リーグ戦で復帰)過半数以上のファンから反発を買いますがこれはリタイアに対する日本とアメリカの文化と考え方の違いでした。

2代目タイガーマスクがデビューしラ・フィエラと対戦、タイガー・スープレックス84で快勝しました。興行的にはまずまず成功したと思われます。

田園コロシアムにおける初の全日本プロレスの主催興行を成功に終わらせた新日本プロレス興行の大塚直樹社長は新日本プロレスからの絶縁宣言を受けて翌8月27日に早くも記者会見を行いました。

大塚社長は「これで馬場さんのところの興行に専念出来ます。私達は独立した法人であり、新日本プロレスの子会社ではない。新日本プロレスの考え方は理解しかねる。こうなったら、私と懇意にある新日本プロレスの選手に全日本プロレスのリングに上がってもらうように声をかける」と報復宣言。

さらに「選手のプロダクション化も考えている。新日本プロレス興行という名前も紛らわしいからその時期が来たら社名を新しくしようと思う」とコメントしています。

そこから「ブラディ・ファイト・シリーズ」終了後には長州、アニマル浜口、谷津、小林邦、寺西、永源遙、栗栖正伸、仲野信市、保永昇男、新倉史裕、キラー・カーン、笹崎伸司、レフェリーのタイガー服部が新日本プロレスを離脱し新日本プロレス興行に合流、フリーのマサ齋藤も加入し「ジャパンプロレス」と名称変更し全日本プロレスのリングに参戦。

一方8月29日、高崎市体育館でUWFの第2弾シリーズ「ビクトリー・ウィークス」が開幕。マーク・ルーイン、フレンチ・マーテル、ピエール・ラファエル、ザ・UFO(ボブ・ダラセーラ)、ジャック・スヌーカ(ジミー・スヌーカの弟という触れ込みだったがそのような事実はない)といった外国人メンバーが来日しましたが、同シリーズには「カール・ゴッチ最高顧問就任記念」という冠がつけられました

新日本プロレスの「強さの象徴」だったゴッチはUWFへ。さらにゴッチが息子と可愛がっていた木戸修が9月11日のUWF後楽園ホールに姿を現し入団を発表。

ストロング小林はこのような激動の中、引退していくのでありました。
6 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年11月>
日 月 火 水 木 金 土
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930