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2024年02月04日16:06

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週プロ流智美あの日あの時予想2023年総括(27)

第296戦、7月5日発売号●王座在位期間は短かったが記憶に残るタッグチーム「東京タワーズ」最後の防衛戦、インターナショナル・タッグ選手権試合、馬場&坂口征二組vsキラー・コワルスキー&ムース・ショーラック組(72年日本プロレス札幌中島スポーツセンター)【正解】日本のリングで空中殺法を初披露した“マットの魔術師”(70年国際プロレス羽田東京国際空港)

【参考】2017年7月5日発売号は魔王ブームの副産物、「覆面世界一」が生み出した余波、馬場&ザ・デストロイヤー組vsミル・マスカラス&ボブ・ループ組(74年全日本プロレス後楽園ホール)

【予想解説】日本プロレスが誇る「無敵のBI砲」は71年12月13日、猪木が会社乗っ取りを企てたクーデター犯として除名・追放処分となった6日前、12月7日、札幌中島スポーツセンターでドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組のザ・ファンクスに敗れ王座転落。

この試合が79年8月26日、日本武道館で開催された「プロレス夢のオールスター戦」での一夜限定復帰を除く最後のBI砲でした。

猪木の後釜に座ったのが坂口。坂口は猪木が保持していたユナイテッド・ナショナル、インターナショナル・タッグ、アジア・タッグの3大タイトルを全て獲得することになります。

まずシリーズ最終戦、12月12日、東京体育館で、猪木の返上で空位となったアジア・タッグ王座決定戦に出場、吉村道明と組んでドリー&ディック・マードック組を2−1で破り、タイトルを獲得しています。

馬場はファンクスに奪われたインターナショナル・タッグ王座の奪回に向け、パートナーに坂口を指名。馬場&坂口組は、67年11月16日、当時アメリカ武者修業に出ていた坂口に海外遠征中の馬場が合流する形で、カリフォルニア州ベーカーズフィールドにてルーク・グラハム&バロン・シクルナ組を相手に両者の初タッグが実現、11月18日には同州サンバーナーディーノにてLグラハム&ジョン・トロス組とも対戦しています。

国内では坂口が最初のアメリカ武者修行を終えて凱旋帰国した69年「第11回ワールド・リーグ戦」の4月19日、高松市国際スポーツパレスで初タッグを結成、ボボ・ブラジル&メディコ2号組に2−0のストレート勝ちをしています。

その後何度もタッグを組みましたが、BI砲がいた為、本格的タッグ結成には至らず。猪木が抜けた71年12月30日、後楽園ホールで行なわれた72年「新春チャンピオン・シリーズ」前夜祭で団体のナンバー1とナンバー2としてタッグを組み、デール・ルイス&マリオ・ミラノ組を2−1で撃破し「東京タワーズ」が本格的に始動。

その前に「新春チャンピオン・シリーズ」終了後、坂口はロサンゼルスに渡り、2月12日、オリンピック・オーデトリアムでキング・クローが持っていたUN王座に挑戦しています。

UN王座は猪木王座返上後の1月15&16日の両日に亘り、カナダ・バンクーバーで王座決定トーナメントが行われ、決勝でシャグ・トーマスを破ったクローが王者になっていますが、実際は架空のトーナメントでしょう。坂口はクローを2−1で破り、第8代UN王者となり、初のシングルタイトル戴冠となりました。

次期「ダイナミック・ビッグ・シリーズ」3月13日、仙台・宮城県スポーツセンターで坂口はハーリー・レイスを2−1で破り、UN王座を初防衛。ちなみにこの1週間前の3月6日、大田区体育館で猪木の新日本プロレスが旗揚げ戦を行っています。

シリーズ終了後、3月19日、テキサス州アマリロ・スポーツアリーナで馬場&坂口組がファンクスのインターナショナル・タッグ王座に初挑戦、1−1からノーコンテストとなり、王座獲得成らず。

「第14回ワールド・リーグ戦」を挟んで5月19日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで馬場&坂口組が2−1でファンクスを破り、ベルトは移動、「東京タワーズ」がインターナショナル・タッグ王者チームとなり、坂口はこれで猪木が巻いていた3本のベルトを全て手中に収めたことになりました。この一戦はNETの「ワールドプロレスリング」で録画中継されています。

馬場&坂口組は6月8日、仙台・宮城県スポーツセンターでブラジル&ボビー・ダンカン組を2−1で破り初防衛に成功。

7月5日札幌中島スポーツセンターでコワルスキー&ショーラック組と2度目の防衛戦を行っています。挑戦者チームは強豪とは言え、初来日は力道山時代であり、もはやロートルの域に馬場&坂口組の防衛は堅いと言われていました。

1本目は15分21秒、コワルスキーが坂口を体固め、2本目は4分41秒、馬場がショーラックを体固め、決勝の3本目は3分30秒、坂口がコワルスキーを逆エビ固めでギブアップさせて2−1で馬場&坂口組がタイトル防衛。しかし、この月の7月29日、馬場は赤坂プリンスホテルで記者会見を行い、日本プロレスからの独立を宣言、8月18日の石巻市総合グラウンド大会が日本プロレス所属ラストマッチとなりました。

この為、坂口とのコンビで保持していたインターナショナル・タッグ王座は返上。209cmの馬場と196cmの坂口は魅力的なチームであり、お互いに「剛と剛」ながら、キャリアの浅い坂口を馬場が巧みにリードしていました。

後に全日本プロレスのリングで馬場&鶴田組が見せるツープラトンのカウンターキックは「31文キック」として先に使われていました。

王座在位期間は短かったですが記憶に残るタッグチームでした。馬場と坂口は全日本プロレスと新日本プロレスに分裂した後も良好な関係を築き、坂口が社長に就任してからの90年2月10日新日本プロレスの東京ドーム大会に所属選手を貸し出すというビッグサプライズを生んでいます。

【正解解説】本稿は70年当時、「まだ見ぬ強豪」の最有力候補だったエドワード・カーペンティアの初来日について触れられていますが、同年7月8日、横浜スカイホールでの来日第1戦、ジャック・デ・ラサルテスとの15分時間切れ引き分けの試合は、2015年7月8日発売号で既に採り上げられています。

本稿によると、カーペンティアは3日前の7月5日、羽田東京国際空港に到着し、日本の土を踏むことになりますが、来日して記者会見を行った訳ではなく、横浜と、おそらく翌7月9日、川崎市民会館でのグレート草津との試合の記事が掲載されたスポーツ紙が出典として使われています。

開幕戦ね横浜大会、初来日のカーペンティアはテレビ生中継ということもあり、15分1本勝負でラサルテスとのシングルマッチを行い時間切れ引き分け。この日は後ろから3つのカードが全て時間切れ引き分けという珍しい記録が残りました。

カーペンティアの得意技であるサマーソルト・キックは,来日前に「月刊プロレス」、「ゴング」でグラビアで紹介され、体操出身であるカーペンティアが華麗にトンボを切って後方に空中回転している写真が掲載されて大きく幻想が膨らみましたが、ラサルテス戦で日本初披露されたサマーソルト・キックはコーナーに相手を詰めて、コーナーポストに登り後方に空中回転するだけの言わば「見せ技」でキックではなく、観客とテレビ視聴者はとんだ肩透かしをくらったことになりました。

第2戦は7月9日、同じ神奈川県の川崎市民会館大会。カーペンティアはセミファイナルで草津とシングルマッチ30分1本勝負で対戦し12分40秒、体固めでフォール勝ちしています。

8月3日、盛岡・岩手県営体育館でサンダー杉山のIWA世界ヘビー級王座に挑み、2−1で敗れました。

1926年7月17日、フランス出身のカーペンティアはこの時既に44歳とピークは過ぎており期待外れに終わりましたが、この時のサマーソルトキックが後に新日本プロレスのリングでタイガーマスクが実際に具現化しておりそのヒントになったのは間違いのないところです。

再来日は3年後の73年4月で、この時カーペンティアは4月27日、仙台・宮城県スポーツセンターでストロング小林の保持するIWA世界ヘビー級王座に挑戦もまたも2−1で敗戦。 

国際プロレスへの2度の来日は当時の提携先AWAルートからでしたが、カーペンティアはその後ロサンゼルスに転戦、ロサンゼルスのプロモーターであるマイク・ラベール主宰のNWAハリウッド・レスリングのルートで75年1月の新日本プロレス「新春黄金シリーズ」に来日が予定されていましたが負傷の為キャンセルとなりました。

80年10月に国際プロレスが、翌81年10月には全日本プロレスが、それぞれ来日を発表しましたが、いずれもキャンセルとなっていますが、これは、カーペンティアが脱税で禁錮刑を受けており、当時居住していたカナダから出国出来なかったということでした。2010年10月26日、84歳で亡くなっています。

※対戦成績は296戦52勝244敗、勝率176。

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