VORTEX ヴォルテックスおもしろかった。ギャスパーはハネケやフォントリアを好みのようであるが(御三方の作風みれば察しがつくかも)、ハネケの愛、アムールにインスパイアされたかと思うが(じっさいは、身近で起こった肉親や彼自身の不幸が引き金だろうけれど)、スプリットスクリーンに表される出来事を追っていくと凝視のカメラアイというセンスに思うも、愛、アムールの方がハネケらしく監視、凝視、窃視な感覚だろうな、となり、むしろギャスパーのこれまでのからも考えれば、アクションのカメラアイだろうかな、となる。行為を写し取るカメラアイであると同時に行為そのものとしてのカメラ(アイ)がそこには表される。もちろん、映画であり劇映画ゆえに、そこには窃視なものもあるしドラマティックになるアクションもあるから、ハネケにもギャスパーにもどちらもあるけれど、強度的にはそれぞれに窃視凝視なセンスと行為のセンスとそれぞれ分けられるであろう。ギャスパーにおけるアクションのカメラアイはスプリットスクリーンによって差異化される人物たちの分けられた行為によっても主張される。ダリオ、とても上手かったな。ダリオによって体現される夫は、夢と映画をプシュケーと言うけれど、アリストテレスで有名なプシュケーはフランス語なのか。夫は夢と映画についての本を執筆中であるが、彼にとって夢と映画は明るい夢見心地な魂であり、夫は人生を楽しんでいるかのように表され、並行して表される隣のスクリーンにおける妻の魂はアングストに充ちているかのように表される。差異化されるアクションによりふたりの現状に対するプシュケーに違いが表される。妻は家族にここにいて欲しいと言うが、愛人を堂々とラテン気質であからさまにしている夫に対する気持ちが、妻のその無意識に出てくる愛として表されるであろう。伏線としてガスの部屋の充満があるけれど、あれも、無意識なる意図としてのあの場所での失楽園ラヴがあるのかもしれない。ラストの妻の決意から察せられる(夫への愛だけではなく、家族が育まれたそのアパートメントということもあるだろう)。近作でいえば、コリンのフロリダで豪快にスモークに生きるビートジェネのような吟遊詩人に比しても、カラックスの娘をたぶらかす、プレスリーのマネージャーである大佐よりもワルな主人公よりも、本作での出来事、行為は身近に起こった事があるので、身につまされるものである。身が引き裂かれるような感覚もこのスプリットスクリーンゆえか感じられる。ギャスパーのいつものタラレバは人物によってぶちまけられることは本作ではないのだが、夫には言わずもがなにそれがあること感じられてくる。妻のここはどこ?的な眩暈だけではない、夢見心地で生きてきた夫の眩暈がそこには表される。ほのかながらにも愛が家族のなか表される。ギャスパーはいつも「絆」を言いたいのだな、と分かるも、本作はいつものような豪華なアクションもストラクチャーも控えめで、そのシンプルさゆえにとてもそのこと素直に伝わるものとなる。ラストはいつものようにカメラアイは回るけれど、そこからの白へのフェイドインとFinの文字、とてもシンプルにフランス映画していて、あれもまたとても印象に残る。
ログインしてコメントを確認・投稿する