アバンチュールはパリで、再見する。日常の切り取りのようであり主人公の男女にそれほど人間的魅力を感じなくとも退屈にならずに観れるのは、写実しながら夢のような語り口だからであろう。最後の意外性が惹きつけるものあるが、それでも、作品のほとんどを占める巴里のシークエンス群があるからそれも光る、当たり前であるが。原題は夜と昼ゆえ、夢と現、女と男、トゥルースとフェイク、現実と虚構、などなど、松本俊夫的にみたらアヴァンガルドとドキュメンタリーなところもあるかもしれないし、中沢新一的には、創作と人類学、というところあるのかもしれないし、でもって、葛藤ありながらも主人公は最初から罪人であり(捕まるのを怖れ巴里に逃走)それが、リニアー的に見たとしたら、ラストのシークエンスにおいても罪に苛まれているものあるし、でもって、そうではない見方も可能な、夢と現が楽しめる作品である。これは二度目だからだろう、2時間20分は堪えられた(一回目はクスっと笑えるもの多々あれど、あまり人間的魅力のないふたりに退屈さを感じたかもしれないが、韓国に戻ったシークエンス群にオッとなってハッとなったと記憶)。
前に書いたのです。
アバンチュールはパリでと気まぐれな唇、おもしろかった。初ホンサンスである。エンタメなインパクトのパクチャヌクとポンジュノやキムギドクの衝撃はおいといて、インディーズではないだろうけれどミニシアター系なので観た作品の中で、時間が経ってからも印象が深く残っているのは、イチャンドンのシークレットサンシャインである(バーニングは表象的過ぎているのと不気味なのでちょっと敬遠)。印象深さはラストの影とソンガンホのユーモラスなところによるところも大きいけれど。さて、ホンサンスは時間が経っても印象に残るかな。。映画のストラクチャーとしてはかなりおもしろかった。アバンチュールはパリで。ロメールやアレンみたいとあったので、上映時間も1時間半ぐらいかなと思ったら、えらい長かった。ロメールのように字幕あったりズームあったり、引いた絵だったり、そしてそれらはアレン的でもある。気まぐれな唇。前半はなにか、当時のフィルム観か、キムギドクの悪い男にもあるようなとこもあり、でも後半は、アントニオーニの不毛の愛、だけれど、どっか知らないところであってる感覚ではなく日常の感覚が映像には溢れている。どちらも野生の眼であるカメラアイがすくい取る現実が特色のようで、カイエのフランスが喜びそうなセンス。記憶や心象といった曖昧なものでみられる世界をカメラアイは現実に引き戻すようすくい取るセンス、それがあるな。おもしろかったんで、考えよう。
アバンチュールはパリで
主人公が土田晃之と野球選手の誰かを掛け合わせたような顔をしている。ユジョンの他者による悪い噂と主人公が見る彼女自身のギャップが表されるが、制作メソッドとしてそれを演じるアクターが悪い噂の方に引っ張られないようにそこらへんのシナリオ部分を読むことなく演じ無垢さを出すギャップと違い、ユジョンにはいくぶんか噂通りにも感じられる粗忽なところも出たりしているが、どちらにしても主人公がユジョンの全体像を捉えていないところはそこには表されている。現実世界においても、全体像を捉えられていることはありえないし、それはまた、己のみが知る己とて同じことで己も捉えることはできるわけもない。ホンサンスのカメラアイのメソッドは人物ゲシュタルトをすくいとり現実に引き戻すかのように表される。と同時に、彷徨し退行する夢意識のような世界も全体に表される。映画的現実である。途中でユジョンのアパートに入っていく主人公も、最終盤の韓国での恋愛騒動も、あとで振り返れば夢だと納得できるヘンがあり、それらは現実世界の地続きに表され、作品そのものもまたそのような感覚に充ち感じさせるものとなる。ロメールやアレンもまたそうしたところある。
気まぐれな唇
主人公が別所哲也と野球選手の誰かを掛け合わせたような顔をしている。作品は不毛な旅で出会う女たち、とアントニオーニ的。最終盤、ソジョンが歩いていく路での彼女、アントニオーニのよう。アバンチュールはパリででもそうだったけれど、ホンサンスの主人公は記憶力がパワフリーに悪い。曖昧な記憶のなかで生きている。そのフンワリ感は絵的には、これよりも後に制作されたアバンチュールはパリでの方に引いた距離ゆえより表されるが、この作品では若いがゆえの熱さなどが表され、落ちる盆とグラスのように、いきなり起こるものというものがまだ若いころのサンスゆえか、表されている。
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