mixiユーザー(id:2566286)

2022年02月13日19:04

63 view

久しぶりのポーラX、ガンモ、エンターザヴォイド

好きな作品であるが、久しく観てなかった。今回の感想、3作品。

☆ポーラX Pola X(1999)
 それまでの映画小僧的なアプローチはいくぶんか控えて、ナラティヴ映画を正面切ってやるという姿勢を感じられ、オーランシュ=ボストが得意としていた文芸作品への挑戦にも思える作品である。カラックスはオーランシュ=ボストの(ジェラールフィリップが主演した)クラシック作品をも批判対象とするかのように、彼のセンスで文学を表現する。オーランシュ=ボストを批判したトリュフォーと同じように、カラックスは「作家の映画」を表すのである。も、現実とは悲惨なものということや血縁の不可解さということ、それらは「良質の伝統」にも多く描かれた出来事でありちょっと時代錯誤にうつり大衆に疑問符を抱かせたのではなかろうか。されど、カラックスのあの時にやりたかったものはこれだったのである。未熟だからこそカルト作家になりえた主人公は、姉を遠ざけ自らを姉と呼ばせる母親のもと、光の中で生活を送る。充たされているかのような空間が白を基調とした映像に表される。EUが生まれた後の移民問題か、或いはいにしえから有るジプシー・イシューゆえか、卑下され闇の森を彷徨う姉が訪れる。彼女の真摯な愛は主人公を森へと導く。彼は真実、真の現実を小説で描くと言い出し、そのまま彷徨のなかに入ってゆく。巴里に奈落の美学が表される。子供はあえなく亡くなり、主人公が真実を求めた集団は地下鉄を爆破し、母は父の形見もろとも亀裂する。姉であるベルと結ばれ、故郷に残してきたフィアンセは狂気の淵をさまよっている。母親が赤ん坊を噛んだと言って遠ざけた愛はやはり危険なものだったのだろうか。私は嘘をつかないとベルは言う。嘘は主体性のみがついている。作家である彼はそれが嘘かどうかさえ判別できないのである。だから彷徨う。彼は作品を生み出すことができなかったが、現実の過酷を体験することができたのである。カラックスはそこにフランス或いはヨーロッパを表そうとした。

☆ガンモ Gummo (1997)
 オハイオ州にある、台風による被害で多くの人たちが亡くなり事物が消し飛んでしまったジーニアという町を舞台に、堕落天使たちの青春群像がその様々なシェーマ、コラージュされる。ハンディキャップや奇妙な風貌やいでたちの人々が切り取られていく。ロイオービソンやマドンナとともにメタルも鳴り響き、ディアボリズムが表される。まるでそこは慈愛が失われた場所かのようであるが、神に見守られているとラストの言葉にあるように、そこに表されるのはごく普通のアメリカ人たちの生活だ。ハーモニーコリンはそこに表象めいたものをあてがうこともなく、実際そこに住んでいる人たちも参加しているのであろう、彼らもキャストしてドキュメンタリー的にナラティヴのストラクチャーが組み立てられる。殴り合う兄弟はまだやらせるのかいと言わんばかりにこちらをチラ見する。アルビノである女性は自らの言葉で、彼女自身の青い瞳と白い肌の美しさを表現する。大男はアームレスリングで負け台風がもたらした被害なみの惨事をもたらし、女は胸を切断すると男が寄ってこないと涙目で語りかけ、猫は殺され吊るされ鞭打たれる。正か否か。我々には正しか提示されない。身体と偶然の刻印された映像はただ写し取られたものとして差し出される。様々なシェーマ、コラージュされる。猫は散々な目にあうが、それ以外は、確かに甚大なる被害、その酷さの跡が町に表されていても、慈愛が失われてしまったわけでもなく悪が蔓延り制御不能になっているわけでもなく、そこにはごく普通の堕天使アメリカンが渦巻いている。哀しくもありご機嫌でもあり、人間がそういうものであるということを惜しみなくさらけ出している。

☆エンター・ザ・ボイド Enter the Void (2009)
 我々はすでにヴォイドにいる。オスカーとリンダがベランダで、夜空に飛ぶ旅客機を見る。空を見上げここ歌舞伎町はまるで虚無の場所かのように語るとき彼らはそこ、空(くう)にいるのである。エンター・ザ・ボイド、この曼荼羅は我々に語りかけるとき我々は輪廻転生へのヘイルズ・ツアーに融即される。やっていることはノエ、いつものタラレバを動きのゲシュタルトに同一化させ表しているかのごとくであるが、タラレバに悔やんでいるでなく探しているのである。マリオの後頭部を通過して、それからリンダの喘ぐ顔が表されるときかつてはパゾリーニ的なインセスト・タブーに感じられるもの、今回はスキャンダルなものには感じられず親愛に思えるものある。兄と妹ふたりきり、決して離れないとした約束、心残りというよりそれを今此処に果たすべく空を認識していく。オスカーはその後ろ姿だけしかほとんど表されず、ドラッグに犯されたかのごとくに虚無を見せる。生きているときもそして死んでからも、無力である。彼はなにをする術も知らない。彼は傍観する。しかし彼は標榜する。丸や光に入り、まるでキヨシクロサワのように時空間をワープする。浮遊のなか苦しみと悦こびを主張する。その無意識するうつろいに漂い、色彩は帯びてゆく。変化はつねにここに有る。無に有して有に帰す。ジメチルトリプタミンはトレビアン。摂取するでなく自然発生的なもの、幾何学色彩模様の渦は心模様を執着から引き離す。ヴィクターは寂しさを諭すことなく相手を責め、リンダは世界に憎しみをあらわとし、アレックスをただ欲望のみに生きる。ふたりは出口なしで会うのではなく、欲求するから出会うのである。立体模型のラブホはカマストラを祝祭する。自我が生まれる。笑みが届く。我々はすでに此処にいる。


  今回の3作品の印象は、衰頽しつつある世界に在る退廃と想像を生み出す根源としての頽廃それらふたつが同次元に作品をドライヴさせているというものである。



0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年02月>
日 月 火 水 木 金 土
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728     

最近の日記

もっと見る