グランド・マスター
梁山伯と祝英台、大酔侠を観て見えてくるもの、それはまず、近代より前の時代において女性は彼女自身がやりたいことへの自由はもうほとんど禁止といった状況にあり(これは中国だけに限ったことではなかろう)結婚をもって家庭に入ることのみが徳とされていて、それゆえ、そうした狭い考えに抗い離れるべく、グリーン・デスティニーのチャンツィイーは大地へと向かいたい欲望に駆られ、グランド・マスターのチャンツィイーは武術家一帯一路をとってゆく。どちらの作品でのチャンツィイーも負けん気が強くて自身のパワーを過信する点で、大酔侠のチェンペイペイ像を受け継いでいる。また、成就できないじれったい恋愛観と悲劇的なByeByeは、グリーン・デスティニーのチョウユンファとミシェルヨーに、グランド・マスターではトニーレオンとチャンツィイーに表され、梁山伯と祝英台にもあるものが受け継がれている。
グランド・マスター、おもしろかった。トニーレオンはこれではじめてカンフーを披露したらしい。
楽園の瑕よりはムーヴが自然に見えるが、それでも切り取りが細かい。アンリーのアメリカ映画的なコンティニュイティは人物の動きにおいても事物の時間経過においてもナチュラルな動向を指し示すが、カーウァイのグリッドを駆使するミゾンセン、主人公たちのその瞬間瞬間の感情を切り取っていく。主人公たちの技を細かく見せていくだけではなく、例えば、トニーレオンとチャンツィイーの恋の予感もその瞬間に表せてみせる。
チャンツィイーはこの作品においても、負けん気が強くて自身のパワーを過信する女性を体現するが、グリーン・デスティニーからもう13年も経っていて、義すら理解できず暴れまくっていたかつてのツィイーと違って、親子間の義もライバル間の義も重んじている。そして彼女は、トニーレオンにとって教える女ともなり、そして待つ女ともなる。こうした女性像は、カーウァイの特色のひとつであり、彼独特のペシミズムの一端を受け持つものである。
途中途中に表される集合写真もノスタルジアを醸しながらも、記念碑として刻印されるものとなる。ペシミスティックに表されているようでありながらも、主人公たちは常に前を見ている。ブルースリーらしき少年と写る最終盤の写真には、未来へと向けたイップマンの決意も表されている。
グランド・マスターのトニーレオンも、グリーン・デスティニーのユンファも最後の最後になって好きとか言うのだけれど、女性の方からしたら、なんでもっと早く言ってくれなかったのよ、キーッとなり、両手の爪で相手の顔を引っ搔き回しそうであるが、できた人間であるグランド・マスターのツィイーも、グリーン・デスティニーのミシェルヨーも黙って受け入れる。男性の反応の遅さは梁山伯を受け継ぐかのようである。祝英台の母親はもっと早く迎えに来てくれたらこんなことにはならなかった、と嘆く。
台湾からNYへと移り住んだアンリーと同じように、カーウァイもまた上海から香港へと移り住むことで変化があるわけであるが、カーウァイはノスタルジアと未知への欲望を彼のテクスト、その作品群に表してみせる。カーウァイにおいて、うつろいゆく時間に、ノスタルジアに浸るポリフォニーが奏でられ知る由もない未来を悦楽する人物たちが表されるのである。
ログインしてコメントを確認・投稿する