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2021年09月07日23:00

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フェリーニブニュエル18


ウンコちんちん、、もとい、温故知新

むかし書いたのです。

◆ 『8½』(Otto e mezzo:1963)
 「ほー、これがあの『8½』か」と手に取り「どれどれ」と最初に観たとき、さっぱり分からず睡魔が押し寄せた。ラストの大団円がえらく長く感じた覚えであり、これいつ終わるんや?という感じであった。今回はフェリーニの本を読んでいたからだろうか、それともただ受け入れられることができたのか、えらく感動する。意識の流れ、とてもマグニフィセントであり、 ラストの大団円、とても感動する。
  フェリーニの、 孤高な主人公の意識の流れが表される。 “アサニシマサ”、グイドは小さいときからかわらず幻想する。エスタブリッシュ・シークエンス、“世の中の縮図”から抜け出る幻想が表されるが、グイドは『ミラノの奇蹟』のトトたちのように幸せの国に行きたくとも引き戻されてしまう。プロジェクターの音以外は無音の此処には、神の沈黙、、愛の不在が表される。グイドは愛を幻想する。しかし、その幻想は現実に立脚するものではない。
   女たちが自宅でハーレムする幻想に、利己主義なグイドの姿が表される。現実に立脚しない幻想は孤高な主人公グイドが生み出すものであり、彼には結びつきを壊す身勝手さ、傲慢、利己主義が表されるのだ。映画監督のグイドはいつも幻想し、孤高を自らのポジションにしてしまう。それはスタッフに対する態度にも表される。「君は変わった」、、グイドは混乱に身をおく。
  女たちもまた、グイドの孤独を生む。しかし、それは彼が愛を知らないから生まれるのである。妻のルイザは現実のオンナを表すが、グイドの幻想を纏うとき彼の思う通りの何でも言うことを聞いてくれるメイドになる。カルラはアダムとイブのイブである。彼女はグイドを誘惑する。サラギーナはアダムとイブのイブであり、カルラの祖型であり、排他されるものである。しかし、土偶のような彼女は母性的アーキタイプであり、男の子たちは彼女のもとに集まる。そして クラウディア、、クラウディア、、彼女はグイドにとっての幻のオンナ、、不在の現前だ。だから、孤独なグイドはハーレムに彼が求める結びつきを幻想する。しかし、それはファロスの利己主義な幻想でしかない。彼は鞭を打ち威嚇し、そして愛されたい。
  グイドは「内部で死んでいるものを葬り去る映画、、でも、ボクは過去を思い出すばかり」だと言う。しかし、意識とは過去を伴いつつ未来へと向かうものである。「嘘のない映画を創りたい」と言ったグイドは、過去を、、彼の人生をやがて受け入れるだろう。彼の人生がエロスそのもの、そこに愛があるのであり、顧み受け入れなければならないのだ。脚本家ドーミエはグイドを批判したりグイドの命により首を吊るされたりするが、脚本家でもあるフェリーニはドーミエをグイドの内なる声として表す。ドーミエだけではなくほとんどの登場人物が、グイドが見て聞き解釈して体内に、、意識に表される内なる声として表されている。そしてそれはもしかしたら、彼のただの夢なのかも、、『8½』はそうやって表される。意識はシュールなものであり、貴方はメタでなければいけない。まわりではなく、貴方自身の声、、精神を信じるのだ。そうすることによって、愛は生まれる。結びつきを見付けられるのである。
  顔々が表される。ドゥルーズは「クロースアップは拡大のことではなく、対象を<実体>へと高める」と言うが、保養地の首から上の顔々、それは強迫観念であると同時に<実体>であり、情動イメージだ。顔のオン・パレードはドゥルーズ言うところの情動イメージのヒット・パレード、視て聴く我々も向き合う他者という実体に対峙し、感情を動かすのである。「愛によって物事を見ること、それはときおり、あなたと誰かの顔とのあいだで、あるいは誰かと物とのあいだで創造されるコミュニケーションである」というようなことをフェリーニは言うが、グイドは顔とのコミュニケーションに強迫観念を抱き拒んでいる。たぶんレヴィナスなど意識していないフェリーニであろうものの、この顔はレヴィナス的な他者であり顔と似たものであろう。それを志向することは愛を育むことにおいて大切なことである。やがて、主人公は愛と生と、、エロスと向き合うだろう。
  保養地で見るクラウディアにもスクリーン・テストの映像にも、現実に立脚しない幻想が表される。終盤に出てくるクラウディア(ピンナップ・ガール、つまりイメージとしてのクラウディア・カルディナーレなのであろうか?)には現実逃避のトポスが表される。しかし、彼女は「貴方は愛を知らない。人を愛せない」と、利己主義コンコンチキのグイドを悲しむ。グイドは突然やってきた映画関係者によって、撮影所に連れ戻される。映画監督グイドの人生の場所は撮影所であり、ロケット台だ。そこにしか、現実に立脚する幻想は生まれないのだ。現実にこそ、愛が育まれなければならない。
   ロケット台に幻想を伴いつつある人生が表される(『8½』は幻想を見ずに現実をしっかり見ろなどとは一言も言ってはいない)。寂しい場所でクラウディアはグイドに「貴方は愛を知らない。人を愛せない」と言う。その寂しい場所から、グイドは映画関係者たちによって撮影現場に連れて行かれる。ロケット台が建てられた現場は現実逃避の場所であると同時に、彼が逃げ出したい現実空間である。しかし、そうした場所だからこそ、人生という祭りが奏でられるのである。彼の生はそこにしかない。楽隊はそれを祝い、幕が開く。彼の意識は開示され、出会った人々を受け入れる。
  リバースするクロース・ショット、「あるがままの僕を受け入れ再出発を」と言うグイドに応え、ルイザは「よく分からないけど、やってみるわ」と言う。彼らは<実体>として此処にある。コミュニケーションが生まれる。終始表されていた情動イメージを、グイドは受け入れる。カルラがニコニコ顔でチャラチャラとグイドに近づく。「私たちが必要なのね?明日、電話して」。グイドは輪に入れと言う。奥景で人々は手を繋ぎ輪を描く。彼はルイザに右手を差し出し、2人は輪に向かう。
  現実逃避のトポスであるロケット台もやがて、現実に立脚する幻想を生むトポスに変わる。人々は此処で和を描く。永遠に続いて欲しい願いが描かれるのである。そこには善性と愛の核がある。と同時に、転覆をもたらす混乱のカルナヴァルが在る。グイドはその事物、物自体、、現象を受け入れる。少年がフルートを吹く。イノセンスが表されるという以上に、転覆へ、、変化への願いがそこには込められるのである。
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◆ 『自由の幻想』(Le Fantôme de la liberté/The Phantom of Liberty:1974)
  久々に池袋ウエストゲートパークに行く。至る所、オッサンたちが御座敷いて、鼻を真っ赤にし昼間っから酒飲んでいる。まだ昼だぜ、、此処は巴里か!? ワタシはエキゾティズムにいざなわれる。花見にはかなり早すぎるし、、今年の花見にしてはドエリャー遅すぎる。謎の異空間である池袋ウエストゲートパーク、ルルルンペンに自由なのかリベラルに不自由なのかよく分からない彼らノマドがいる一方、ここでヤンチャぶり発揮しているはずのあいつらがいない。さてはて、カラーギャングはどこに行ったのか?チーマーは今やゲーマーとなり、テレビ・モニターに向かって鉄パイプを振り回しているのか?彼らがいないことは社会的に健康であるが、あの年頃の若者は徒党を組んで愚連隊をやりたいもの、、若者的には不健康である。しかし欲望の形とは、リベラルに変化していくものにちがいない。自由よ、くたばれ!
  『自由の幻想』である。最初のシークエンス、フランス軍が墓からエルビアを運び出す。彼女の伝言はその後、ベッドのまわりダチョウが歩き回る夢見るフーコー氏に届く手紙や、終盤の、警視総監が吐糞症で死んだ妹マルグリットから電話で墓に呼び寄せられ聴くはずだった伝言に引き継がれる。手紙の内容もマルグリットが何を伝えたかったのかも、我々に知らされることはない。しかし、それらはこのテクスト全体に不条理バーレスクとして、ずっと現前する。最初のシークエンスとラストに大声で発せられる「自由よ、くたばれ!」こそが、『自由の幻想』に込められた伝言なのである。
  人間が造り出した淫乱猥褻なものを通して、“自由”が行う聖なるものへの冒涜が語られしおん。自由、これは我々ヒューマン・ビーイングが生み出した、ここに在りながらにして見えない暴力なのである。自由がフーコー氏の娘が彼と彼の妻エレーヌに渡すヒトが歴史のなか創ってきたもの、文化遺産の猥褻写真として、ズームインされるナースが旅籠で目撃し彼女自身も参加する聖なるものへの冒涜の数々、または別の部屋での老若近親相姦として、教授が警察学校で出会う警察官たちのハチャメチャや、彼がフラッシュ・バックするシェームレス日常食卓排便行為として、リシャルさんがかかる現代病の癌と医者が言うおセイジとして、見方が狭まりまわりを見ようとはせず妄信してしまうMy View、これが見る娘の誘拐とビューロクラシーに動かされてのシステム作業として、無差別殺人に、殺人者のスター神話化として、そしてラストの動物園の制圧として表される。
  ブニュエルは人の世をそのまま表し、これに愛と反抗の精神を示す。彼はこの社会情勢をスケッチし糾弾すると同時に、『黄金時代』のガストン・モドーやリア・リス、そしてキリストが表した同様の狂気の愛を指し示すのである。狂気の愛、これはクレイジーに見えてもリバティーが誕生してから(あるいは、人間だからこそリバティを生み出すといった彼らが誕生してからずっと)在り続ける普遍のヒューマン・ラブ、、消えることはない。リバティーが生まれて以来、この欲望は二次元に拡がり続ける。ブニュエルはこれに愛憎する。
  最終盤の2人の警視総監、、、『欲望のあいまいな対象』の2人のコンチータが欲望の対象であったのに対し、彼らは欲望そのものだと言える。ジュリアン・ベルトー演じる最初の警視総監が妹に呼び寄せられ墓に向かうも、彼は伝言を聴けないどころか拘束され自由を奪われてしまう。しかし、自由がなくなることはない。これを演じるには最適であるフランスの国際的俳優ミシェル・ピコリ(演じる役の多くは、胡散臭いのであるが何故かクールで謎に充ちている。だから、嫌な奴だけで切り捨てられない魅力を出す。このMr.ミステリー、後にヴァルダの『百一夜』でシネマ氏を肉体化する)によって肉体化された、第2の警視総監, a.k.a. The Phantom of Libertyがもはや此処に顕れている。このファントム、現代人である我々の側に常にいて、ほくそ笑む。警視総監たちは機動隊ともなってレヴィ・ストロースの口を封じに、野生の思考を制圧するべく動物園に向かう。我々はこのファントムから逃れられないながらもこれに抵抗し「自由よ、くたばれ!」と声を大きくする。現代病である自由、それは欲望であり権力なのである。
  “自由”が行う聖なるものへの冒涜は現代にも、そして此処ジャポンにも在って有って在りまくる。街に陳列されるAVショップと、それと等価なスペクタクル・スカイツリー。知り合いのリッチな坊さんもやってるSM嗜好にスワッピング夫婦交換。大阪地検や神奈川県警のヤンチャぶりに、排泄もジャンクもなんでも在りの食性文化コミュニケーション。コンドームなしセックスによって成るエイズに、メタボに鳥インフルエンザといった現代病。そしておセイジ。ここんとこトンと聞かなくなった身代金誘拐と思っていたら、遂にいでたる日中間相互利権争い誘拐事件。官僚に動かされる管ちゃんなのか、管ちゃんに感化され無機能になる官僚なのかよく分からんジャポンに、ケッキョクはそんなビューロクラシーのシステム装置に乗る我々。カッパ寿司CMの誰も驚かない宇宙人なみに、またか!?と誰も言わなくなった二次元化している芸能界、、挙げ句のおまけにオシオマナブはスターの非日常シンドロームとして崇高化されるかもしれない、でもって、ヤクザ映画のオファーがきても断って、教祖様になった方が壮大に養育費稼げるだろう。そして、世界ではまだまだアルアル、てか亡くなることなき政治的抑圧。ファシズムはリバティの名のもと自由化する。ファントムは自由を愛する我々の守護霊と成るのである。
スパーク2(キラリマーク)
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  ☆
◆ 『オルフェの遺言 −私に何故と問い給うな−』(Le Testament d'Orphée /Testament of Orpheus:1960)
  コクトーは幾つダヴィデ像を持っていたのであろうか?手で持てる小さなサイズから彼と等身大の大きなサイズ、そんな白い肌の大理石の像たちに、、、もしかしたらピンクのダヴィデ像もあったかもしれない。彼はダヴィデ像に囲まれ、気分はハーレムだったにちがいない。ただしこのダヴィデ像、ミケランジェロが創ったものではなく、ベルニーニが創った方である。ベルニーニの躍動感溢るるバロック、コクトーのシネマトグラフに継承されるる。このダヴィデくん、どこかしらジャン・マレーに似ている。そして『オルフェの遺言 −私に何故と問い給うな−』、愛し合う者たちの自由が希求される。
  このテクスト観ながら、なにか『詩人の血』に似ているなと思いチェックしてみると、これら『オルフェ』共々トリロジーだったのね。そのこと今頃、知る。トリロジーに表されるもの、、死すべき運命という事実への欲望のあくなき抵抗。自由を狂気の愛として賞賛する一方でこれは我々自身をリベラルに拘束し聖を冒涜するものだと糾弾するブニュエルに対し、ベルエポックをも謳歌した詩人コクトー、自由をオンリー・セレブレーション。映画が創られる空間スタジオが表され、映画の自律性が表される。スローモーションや逆回し、映画カメラが行なえるメディア/テクニック/テクノロジーが思う存分表されるのである。イマージュ・エイジ、詩的言語は自己を肯定する。シネマトグラフはコクトーの自由であり、時空間を飛び回る彼にフリーダム表される。
  詩を書くときの筆と同じようにシネマトグラフを自由に使いこなすコクトー、死すべき運命という事実に抵抗する。エスタブリッシュ・シークエンスの再生する風船、シネマトグラフは生を此処に甦らせる。生の表裏一体である死に、この詩人は(もしかしたら生というもの以上に)魅了される。トリロジーの他の2テクスツと同様に、鏡(『オルフェの遺言』では、我々が対峙するスクリーン)の向こうの死の世界 - シュールであり生への意識を覚醒させてくれるスポット -、詩人は死と隣り合わせの生を覗き見る。詩人は此処で未知を探究するのである。『オルフェ』で詩人カフェのオーナーは詩人に「君の欠点は知りつくそうとすること」と言うが、この言葉は『オルフェの遺言』にも表される。そしてこれは、『詩人の血』の詩人にも言えることなのである。詩人の業は未知なる生を探究する。
  この遺言であるテクストにおいて、詩人は自らが創作したものと出会っていく。黒い半馬人にユディトとホロフェルネス、栗色の髪のイゾルデにビルフランシュの天使たち、恋人たちがキスをし詩やシャンソンを口から奏でるサンジェルマン・デ・プレ像、遂にはパラスアテナ或いはミネルパから受けるバックの攻め、、ゲイであるコクトー、これに恍惚する。詩人は死の痛みを通過し、更なる生を得る。愛を見えていない象徴的な目の女神パラスアテナあるいはミネルパ或いリー・ミラー、あるいはオルフェとユリディスと同様に、詩人と彼のダヴィデはすれ違う。『オルフェ』と『詩人の血』が表すように、遺言もまた愛の自由がないこと語る。
  スフィンクスに連れられ過ぎ去るオイディプス、、地獄の機械シネマトグラフは残酷に生を写し取る。しかしこのTestament、オルフェが尋問会のメンバーに言ったように、生の素晴らしさを証言する。愛に自由はない。未知であるが故に、この世は活きる。
  セジェストが言うように、沈黙は後退する。かくして、陽気な波がコクトーの告別の映画を洗い流す。スピードの世紀に生きたコクトー、ハイビスカスを主役とする。ドクロとハイビスカス、血と花。コクトーにいざなわれる我々は、この花と同じように生を実感する。フィルムはこの生を表層に刻印し、消し去ることはない。スクリーンの向こうの死の世界であると同時に我々が覗き込むこの生の世界、、此処に未知という名の自由が生まれるのである。


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