隣の席で、少女たちが、まるで三日ぶりに飯にありついたかのように、んめー、うわぁこれんめー、んめー、と言いながらランチを食べている。酒の話もしてるから未成年者ではないのだろう。或いは、不登校の中学生仲良し二人組なのかもしれない。それにしても、女子から、んめー、これんめー、んめー、んめー、の連呼は、たぶんだけれど、聴いたことがない。シナリオに使えるかな。音は空間的拡がりとなる。
ホーリーモーターズ、クライマックス、スプリングブレイカーズ。あれらはなんだったのだろうか。久しぶりに、カラックスノエコリン祭りをしようかな。うろ覚えでいえば、ホーリーモーターズは、モーターズっていうぐらいだから、あのクルマの移動と、映画の本質的なムーヴとかけて、動く=感動する、と映画の解体を行いながらの構築・再見(脱構築的なものなのだろうか)が成され、虚構と現実、というよりは、化けることによる差異が、それそのものが生成であり、そのなか、ムーヴのなか化けてくること、シネマ的解放感とあいなることが表されていたのか、はたまた違うことか。クライマックスは、共約不可能性が協働作業においてはヒエラルキーをなくし、おもしろく意図しないもの生み出すと私的には思うけれど、それがネガティヴなものへと志向していくものが表されつつ、ヒトが集まってもいいことがない、という教訓が表され、でも、あのアンサンブルだからこそ作品としては素敵なものが生まれたという矛盾、言ってることとやってることが違って作品が言わんとすることに説得力をもたせないけれど、初盤で表される会話群、あれってなにか初期のスパイクリーを思わせるけれど、思えばドゥザライトシングも、群像劇として素晴らしいアンサンブルがあったからこそ成せられたわけでけれど、描かれることは、ヒトが集まればやがて暴動がおこるという、これまたコントラディクションが表されていたな。ノエは体験空間をつくろうと常にしているけれど、なんの体験だったのかな。スプリングブレイカーズは、少女たちが悪いヤツに騙される筋なのかと思いきや、セレーナゴメスの悲壮感はジェームズフランコへと引き継がれる、いわばコリンがキッズやガンモでやってた男たちと女たちのふたつの噺のパラレルをリニアーにしなおしたようなセンス、そこに流れ、そして引き継がれる様々なムーヴとはなんだったのか、ストラクチャーはどうそれを生んでいたのか、と気になる。
ゴダールのヌーヴェルヴァーグ、図書館で借りる。再見しよう。サウンドだけを集めた、いわばソニマージュのソンだけ集、以前持ってたように思い出される。
leos carax tribute
gasper noe tribute
harmony korine tribute
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