グエムルも二回観たけど、母なる証明をまた観る。緑のなびきがポンジュノ多いな。キタノブルーならぬジュノグリーンである。殺人の追憶とこの作品は、見えない出来事が大事な部分となるが、グエムルはこの2作品での見えない出来事を視覚化として怪獣に表象しているように思えるけど、パラサイトにおいても半地下の住人にその視覚化が託されているように思える。これは言わば、韓国内での社会格差やあれこれを表しているのかと感じられたけれど、恨がそうさせているのか、パレスチナはもっと酷いのでは、とか思ったけれど、『母なる証明』の終盤に出てくる捕まった少年を見るとき、あぁこれはどこにでもあり得る普遍的な問題なんだ、と思えた。
海街ダイアリー久しぶりに観ると、今回も捨てられた子供たちの物語か、誰も知らないと似ているな、でも大竹しのぶの独立独歩のわがままさは、諸作品の阿部寛にも通じるな、とか思ったけれど、父の死にはじまり、おばさんの死で終わるところ、死のイシューが幻の光も想起させ、やはり死と生は北野武や黒沢清と同じように在るのか、と思わせられた。でも、北野の円相とも黒沢の幽玄的なその境界線のひしめきとも違うものが在る。なんだろうか。
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