『Dolls』
これは寓話ではなく、芸事、芸能、もっとインテリ言葉でのたまえば、芸術だ。その術は人をかどわかすかもれないが、感情、情、エモーションをひもとき導いてくれる。この作品は事実、映画である。
ルイマルの42丁目のワーニャやイムグォンテクの春香伝と同じように劇場空間、芸事で始まるが、それらの作品が役者や観客を通して劇中世界と同一化を託されるのとは違い、文楽を観る観客を映し、浄瑠璃人形たちがある方向にゆらゆらと歩み、そしてふたりがこちらを見るところから始まること、同一化をうながすではなく、遮断するところから始まる。
遮断している。しかし、この映画という芸事、かどわかしながら機敏にエモーションをその空間にムーヴさせる。河原に投げ捨てられた乞食、気狂い、カタワ、が芸事を極めると言わんばかりの遮断に、それを視つめ聴きいりながら、感情はそこで織り成される。来世への願いがそこに表されながらも、現代というこの辛くある場所では、色鮮やかな情が遮断されてしまう。それでも、赤い絆は来世への願いを伴いながら円環する。盲目の男とヤクザの血の赤色が紅葉と重なるとき、そしてせちがらいながらもその生活世界に結ばれる人々の情けが重なるとき、心に花開くものモーションとなる。来世は現世を導いてくれている、そしてヴァイスヴァ―サ、現世も来世を然り。
人形たちが安堵する赤い絆よりも、ペンダントを見せられるときの方が心がムーヴした。これは夢ではない、と知らされる。
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