『母なる証明』
あんにょんはせよー、母の力は偉大である。子を慈しみ、そして子は母を慈しむ。キム・ヘジャは国民的母親像らしく、日本でも人気があるウォンビンとの親子関係、さしあたりこの豪華共演を日本の芸能人で例えるならば、京塚昌子と竹脇無我の親子関係の実現と言えようか。ふむふむ、最近の人たちにとっては、どちらも四文字熟語かと思われるぐらい聴かなく親しみもない固有名詞になっているのかもしれない。もっと分かりやすいファミリアーな芸能人にして例えよう。そう、森光子とキムタクの共演によるマザー&サン、そんな豪華共演なのである。まだピンとこない人のために、他を例えるとすれば、そう、吉田羊と寺田心の田田コンビ、そう、デンデンコンビの豪華共演なのである。ご理解いただけただろうか?前ぶりが長くなてしまった。『母なる証明』である。パッと感じたことを箇条書きする。
*ユーモアはパクチャヌクのそれと同様、ボンジュノのテクストにはいつも表される。キム・ギドクのにはそれがない。『嘆きのピエタ』との比較で両作品を観るとおもしろいかもしれない。
*ボンジュノのテクストに表されるもの、それは無能者の成長、或いは智恵。
*弱き者を慈しむ。
*弱き者を称える。
*誠に無能な公的機関がボンジュノのテクストにはいつも表される。
*息子がクルマからはねられるのを見てしまう母は、指を切っても彼女自身の痛みはいとわないぐらいに息子のことを心配する。
*警察にクルマで連れ去られる息子を追う母が後部ガラスから表されるショット、ネオレアリスモな感覚を生んでいる。じっさい、母親が真相を追っていく経過がエピソード形式になっているところもネオレアリスモ様式である。
*不憫なジョンバルが両親はいないと言うときに、泣く姿を見せるキム・ヘジャ。
*ジンテもジョンバルも泣くなと言う。→ 映画的に上手い反復リズム表現であるが、そこには、大人としての男の在り方がちゃんと意味付けされている。
*母なる証明とは、子供がしっかり生きてゆけることを見とること。 → 冒頭のダンスは母としての責任の全うの歓喜であるが、ラストのバスでの狂喜乱舞は、そのことであろう。また、大人となった息子からの解放、自身の生活へと向き合うことも表されているように思える。
*母が同業者旅行に出掛けるときに見せる、母を送るウォンビンの表情。彼をキャストしたことがここで理解できた。十人十色と観客は感じ方が違うからいろんな捉え方ができるけど、ほえる犬におけるぺ・ドゥナの森を歩く無垢に無表情な感覚も、私的には同じように肯定的な、前向きなセンスに捉える。
*小市民のヴァイタリティ。弱き者に思われても、どっこい生きてゆけることの証明。
かむさんみだ
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