黒沢の贖罪も観たので、これも観ちゃえ、とゴーイング・マイ・ホーム全話観る。これ放送していた時はそう興味はなくチャンネル変えてるとき、宮崎あおいが牧場で働く加瀬亮を訪ねるとこたまたま観て、是枝裕和は北の国からの現代版やってんだ、と思ったけど、今回観ると、あれはあそこだけのシーンだったのね。幻の光とこれを照らし合わせると、北野武と黒沢清と同じように、是枝もスピリチュアルなのか、と知る。家族の結びつきを描いているわりには、見えないものへの志向性だったのか、と思うも、主人公が父親の頬を触れるときの記憶が表されるとき、見えないものへの志向性もやはり結びつきとリンクするものだったのか、と知る。ずっとこれが鳴っていたので母親もこのメロディを口ずさむようになる。
『ゴーイング マイ ホーム』
今や天然記念物に指定されているホームドラマを現代に再生させるかのように、保険証を忘れちゃったけどどうしようか、のセリフを幾人かの登場人物にふってリアクトさせる反復効果、まわりの人々が主人公はどういった人物かを説明するかのようにセリフで言わせキャラ設定を分からせる方法、女の子が大人びたように喋るユーモア、かつての松竹や石井ふく子が嬉しがるかもしれないが、現在進行形のテレビドラマ制作者たちからは映画野郎がオレたちの世界にぬけぬけと入ってきやがって好き勝手にして、でもやってることはホームドラマのクリシェの羅列で、おまけにセリフの中身に隠れる内容はエモーション希薄と思われたのではないか、と1〜3話あたりはそうした感じであったが、エピソード進むなか、だんだんとユニークな世界観があらわれてくる。是枝はオレのツインピークスをつくってやる、という気概もあったのではないか、と思わせられてくる。ミステリアスな素朴美女、長野の宮崎を追うときに我々もまた怪しげで陽気なドライバーの阿部サダに導かれ不思議に町に迷い込む。双子の女の子がシャイニングしている。コロボックルのような小人のクーナが住んでいるかもしれない町で、我々は過疎化という現実的問題にも直面する。なくなりつつある心のふるさと。主人公の父親は、都会から遠く離れたこの場所で心の結びつきを求め、疑似家族を形成していた。家族社会や会社社会のほころびがシリアスにならず明るいままながらも微かに表されながら、主人公は心のふるさとに触れながら、子供心に帰るかのようにクーナを魅始めていく。父親の想い出を忘れた主人公、ロード・オブ・ザ・リングを死んだ友に貸し忘れたまま取り残された彼の娘、ふたりはファムファタールの宮崎に導かれながら、心のふるさとに触れる。見えないものを追うのは、幻の光にも表されるが、誰も知らないの兄のシャツの袖を引っ張る弟、或いは彼ら兄弟たちが歩いていくラストショット、その後ろ姿、是枝裕和のテクストにおける登場人物たちが表しているものすべてにある。今は触れえないものであるが、阿部寛の子供時代が触れる父親の頬、そこにある暖かみは、フードスタイリストである妻が差し出す暖かなスープにのる帽子に家族という形として引き継がれる。そうした憧憬を、是枝はイメージにしてみせる。
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