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2019年09月29日21:45

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盗まれた欲情

『盗まれた欲情』
第1作は作家のすべてが詰まってるというが、ソレがとても出ているイマヘイのデビュー作である。かつて観たときは、やたら悩んでいる長門裕之を見て、やたらに時代に苦悶する主人公たちが描かれるジャパニーズ・ニューウェーヴとして、大島渚や吉田喜重と同じ枠のものだと思って見てしまっていたけれど、今回は印象が違ってくる。理想主義者が民のパワーに遂には弾き出される、となにかにこの作品のこと、そのようなこと書かれていたが、寧ろ、アプレゲールではあってもその通過儀礼として、主人公は民のパワーに包み込まれる、そんな感じがするものであった。盆踊り的百姓パワフル、民のミラクルを旅芸人の生活、河内の生活感からなにか届けてくれる、面白さがある。主人公はそうしたものを遂には受け入れるのではないかな。オリジナリティーを発揮しだすのは、ホンよりも”撮る”というメソッドに移行していく後年の作品においてだけれど、助監督時代に培った現場経験が様々にカラフルにあるからだろう、いかなるジャンルをも貪欲に取り入れながらもとても整理されているものが表されている、やはり凄いな、とコレ観て思うのである。

PS

『盗まれた欲情』について、理想主義者が民のパワーによって遂には弾き出される、となにかにこの作品のこと、そのようなこと書かれていたが、戦後の10年間の日本映画作品に、青い山脈やいくつか理想主義に萌えるような作品があったので、そのイデアがなんに対するものなのか、その中身はなんなのか、とか、そうした理想に対する欺瞞を感じて、イマヘイのことだから、ソレもやはり描かれていたのかな、となる。タイトルからしても、イマヘイ的に言えば、戦後アメリカから盗まれた、あるいはマインドコントロールで変えられた、日本人が本来持つ情動のような気もするが、ちょっと深読みしすぎかな?


PSのそのまたPS

『盗まれた欲情』にドライというセリフが出てきたのだけれど、流行語になっていたのかな。50年台中盤そこから数年経ったところで、日本映画は社会的弱者の立場から社会の矛盾を告発し且つセンチメンタル、あるいはごく普通の人々が助け合いながら生きる、といった作風から変化している作品も、傾向として出てくるのかな、とどちらも1957年の作品である、渋谷実の『気違い部落』(ポリティカルコレクトネス的に、タイトルだけで現在はソフト化不可能な作品に思える。)と野村芳太郎の『伴淳・森繁の糞尿譚』をチェックして思う。観てみたい作品だ。世界のクロサワの57年の作品が『どん底』だとなると、それ以前のは、民の底力は同じように描かれていても、こうしたドライな邦画が生まれる傾向が50年台中盤そこから数年経ったその時代にはあったのかな、となる。




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