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2019年08月29日16:03

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11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち



『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』と同じように、昭和の考察であると同時に、企画ものとしての流派も感じえる。すなわち、これは映画になる、と言う感覚のそれである。そこには精神を再考すると言う働きが含まれあっても、それ以上に、映画を撮る、と言う、創造とともにある興行となる、その指向性がある。それは資本に対して在るアンチとしての資本であり、それが現在にもあり続ける若松の精神性なのであり、そのこと民を押し黙らせる権力と時代に対する抗いとして、若者である若松がある。

紅一点の寺島を黙らせ続けることにより、やはりちょっとピンク、運命の赤いフンドシの結びつきもなにか、満島真之介の野生的な顔立ちと真摯な眼差しが薔薇族にも感じえ、途中で丸山明宏も出てきて、愛の三角関係が表されるのかな、となるも、そんなことはあるわけもなく、真摯にその純粋なる情動が表される。一方で、テレビ中継されたあの演説を目の当たりにして若松が、なんとバカなことを、と思ったと聴くが、そうしたアイロニー的な若松の眼差しも感じえる、三島の思い描くものへの描き方がある。しかし、それは純粋なものへと遂には浄化を遂げる。

『実録・連合赤軍』の最終戦は、きっと若松も面白く観たであろうナバロンや特攻大作戦といった”昭和”のエンタメのような映画的スペクタクルとして表されていたが、この作品では井浦新が肉体化するミシマをじっくり捉えていくような方法で一本化することがとても効果的であり、孤高や、だからと言って鬱積することなく生まれる爽やかさ、といったイウラの素直な表現が三島ロスを生み出すものを与えている。主婦をはじめとしたヒト達が朝のテレビ小説の或る男性キャラが出てこなくなった時にロスに陥ると聴くが、この作品、残された三人からすれば目の前で起こったこと、まさにロス以上のものがあったろう、と、それがまさにその捉え方と井浦の高い表現力により表されている。ラストの手に表されるものがなくとも、心に残るもの、それは責任や精神、時代といったものではない、心底に在るもの、と感じえる。



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