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2019年04月13日02:00

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合戦考証39「何が誤解?」島原の乱

○前回までに見た二通の手紙。その内容を整理する前に、落城情報の流れを確認します。城乗り開始は二月二十七日で、その最中に忠利が一報を送りました。これを忠興は、静岡県の島田で三月六日に受け取っています。次に忠利が、落城の詳細報告を三月一日に送ります。江戸にいる忠興は、三月十六日の手紙で「有馬の城が落ちた報告状も、すでにもう届いています」と書いていました。十五日間もあるんですから、一日付の落城報告が届いていると見て、問題はないと思います。よって普通に考えるなら「一日付の落城報告を読んだ」とき、忠興は「原城陥落を知った」となりますが、実際はそうでないことが判明したわけです。

●忠利九二八「3月23日」考証37に全文逐語訳
●忠興一五一八「4月5日」考証38に全文逐語訳

○忠利の「九二八番」に対する返書が、忠興の「一五一八番」です。これの記述によると、忠興が「原城陥落」を知ったのは「江戸に到着する前」だったことがわかります。落城後すぐに忠利が、豊後目付に報告を送り、その報告が江戸へ送られるとき、大坂にいた「曽我又左」によって写されて、その写本が江戸の細川家に送られていたんです。留守居の加々山たちが、それを読んで、江戸へ向かっている途中の忠興へ「送っていた」んですね。その日時と場所は不明ですけど。

○幕府の旗本「曽我又左」は、このころ大坂奉行の一人だったようです。細川家と親しいことを豊後目付も知っていて、忠利の報告状を写して、曽我にも送ったと見られます。それを曽我は親切心で「写して細川家にも送ってくれた」ようです。途端に加々山たちは「殿様が大手柄だ」と大喜びで、「御隠居様も喜んでくださる」と考えて、急いで「道中の忠興」に転送したわけですね。ところが忠興は、内容を見た途端に「この件を今は批評するのが余計なことと心に思った」んです。原文は「此事先沙汰を仕候儀不入事と心に存候」です。だから、江戸の下屋敷に到着するなり忠興は、玄関も上がらぬ前に、出迎えた加々山たちへ「この件を今はあれこれ言うな」と言ったのです。「江戸我々下屋敷へ着候而、玄関上り候はで其儘主馬、織部に申候は、此事先取沙汰無用に候と申候」が原文です。

○なぜ忠興が「この件は沙汰無用」と言ったのか。その理由を加々山たちは誤解したと見られます。加々山たちの理解では「我らの殿様が、本丸一番乗りに加えて、大将首と、二つも大手柄をなさった」なのに、「二つの大手柄を独占するなんて、そんなことができるはずもない」というふうに「御隠居様は信じておられない」と思ってしまったようです。だから忠利は「九二八番」で「報告に嘘はありません。現地の上使衆もお認めの事実です」と繰り返したんでしょう。文中には「少しも間違いはございませんので、御気遣いはなさいませんように」の言葉もあって、原文は「少も相違無御座候間、被成御気遣間敷候」です。「ご心配なく。信じてくださっても、だいじょうぶですから」の意味になりますよね?

○けれども忠興は「沙汰無用」のほかにも、「報告が早すぎる」という意味のことも言っているんです。「一五一八番」によると、忠興は加々山たちに「現地の御奉行(松平伊豆と戸田左門)が江戸へ報告するより先に、細川家から直接に報告するなど、かつてはなかったことだ」と言ったとのこと。原文は「前々は、御奉行之付候城責合戦之事を、御奉行衆をさし置、我事を直に注進申事一切不仕候つる」です。よって、忠利が「九二八番」で弁明したのは「当家の横目役に付いた馬場三郎左衛門が、本丸乗り込みの直後に豊後目付へ報告したのです。私も見ましたから確かです」で、原文は「我等手へは馬場三郎左衛門御横目にて、則本丸乗込候時、三郎左自筆にて注進状豊後迄被上候を、我等見申候」です。つまりは「馬場のあとに豊後目付へ報告した」のであって、自分から「真っ先に報告したのではない」のだし、内容も「馬場の報告と同じもの」と言っているんです。

○しかし忠興は、細川家の「本丸一番乗りと大将首」を、信じていないわけではないんですよね。だから「一五一八番」には「其方被申所も卒度も相違無之」と書いていて、「そなたの言っている内容は、ちっとも違っていない」と認めているんです。加えて「豊後目付に報告したこと」も、全面的に否定しているわけではないんです。「ただし二十七日にも攻め損なって、御手段の立て替えのようでもあるから、早い報告も構わない」と書いていて、原文は「但二十七日にも責そこない、御手たて替やうの事に候はば、はやき注進も可然事候」です。実はここがポイントなんですよ。忠興は「二十七日に攻め損なった」と表現していること。

○さらにヒントがあります。「一五一八番」で、忠興が加々山たちに言ったこととして「そなた(忠利)が三ノ丸、二ノ丸、本丸まで一人で取ったかのように言っていることが、よくないのだ。十万余の軍勢はそのあいだ何をしていたのだ。ここが私は納得できないのだ」の記述。原文は「其方三之丸、二之丸、本丸迄一人して被取候様に申成候事、不可然候。十万余之人数は其間何をして遊候哉。此所我等合点不参候」です。ちなみにですね、この文章を単体で読みますと「城攻めは皆でやっているものだ。忠利ひとりでやったのではない。謙虚になれ」の意味に解釈してしまって、だから忠興は「当家の手柄を自慢げに話すな」と言っているのだと思ってしまうんですよ。そのうえ忠利の「九二八番」に「私の手紙と違うように理解した者たちがいることを主馬が申し伝えてきた」の記述があるため、江戸には「細川の手柄」を妬んで悪口を言う者たちがいる、と解釈されるんですね。ゆえに「処世術に長けた忠興」は「手柄の独占を自慢するな、よそに憎まれるから余計なことを言いふらすな、と命じた」の意味に解釈されているわけ。

○いかにも「日本社会らしい陰湿さ」って感じですけども、残念ながら、そういう「次元の低い話」ではないんです。だって前回に「衆」とは「忠興のことを言っている婉曲表現だ」と指摘しました。留守居たちは「御隠居様が殿様の御手柄をお認めにならない」と「誤解」して、忠利へ報告したのが実際の事情ですよ?
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