『水のないプール』
電車の音、切符切りのパンチの音、と都市のサウンドだけではなく、インダストリアル サウンドには雨の音、風の音もまた街にある音としてある。現代のネイチャーは、自然音として都会を包み込む。かつて観たときは死姦のようなことをしてなんとも陰湿であるといった印象であったが、久しぶりに観ると、ピンクに慣れてきたのか、むしろ爽快な感覚の作品に思えた。切符切り、これってそれまで闘争を繰り広げてきた国鉄であることがミソなのかな、と思ったけれど、メトロの方だったのか。刺激がもはやない時代において、オトコは気分は鬱積しているんだ、ろっくんろーる。生きがいを失っているかのような男が都会に生きている。水のないプール、それが意味するものは潤いのない街や乾ききった都会というのもあろうが、むしろ、水のないプールは意識のない容器というセンスが強く表されている。頭のなか白くなるエクスタシーとしての意識のなさ、である。カラダのなかにはノーコンシャスネス。家族のいる風景もやがてなくなり、ミーもいなくなり、オトコが選んだ究極は、メンタルもフィジカルもなにもないマテリアル、そこに都会の真実をカンジる。射精するかのような注射器、無音のセックスシーン、そこにはマテリアルしかない。コレクターとなる彼、そこにはあまりにも現代的な現代病が表される。しかし、それはアーバン・クライシスなのではなく、現代人を写し取る救済が表されるのである。逃亡とは現代に向き合い埋没することなのであり、その場所の刺激すらをも超越することなのだ。
ラストの内田裕也が舌を出すラストは、この主人公のざまーみろ、という意思表示であるのと同時にワカマツらしく、劇場空間を含めた映画というメディア、そのこと自体を表現している。ファンタジーという空間は都会の一部としてあるのであり、と同時にその都会をも包み込む供義なる空間としてハレるのである。
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