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2018年09月28日22:09

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赤い橋の下のぬるい水


『赤い橋の下のぬるい水』
クロサワのまあだだよにもラスト、虹が表されていたと思うけれど、イマヘイのこの遺作にもまた虹がドリーミーに表される。映画というハレの時空間、私たちは非日常を知る。非常民である私たちは壺に入った宝物を、主人公とともに追いかける。都会に疲れた現代人は、潮と出くわすが、その突拍子もない出会いこそが非日常であり潤いなのである。私たちは愛の素粒子でできている。

役所広司はこの頃の彼らしい生真面目をみせ、会社と家庭に疲れ、非常民に憧れを持つ。されど、彼自身も私たちと同様の非常民。

オトコは愛を求め、自らを求め旅に出る。ドロロローンとした池辺の音楽に表される妖怪のようなオンナは、潤いを求める羊水に浸かっている。清水美沙はうなぎでは一見、イマヘイの女らしからぬ女性を表していたが、この作品の彼女はイマヘイらしく生命感あふれているのであり、またその時代に合ったイケイケ女性である。彼女をフォローする形でイマヘイ元祖的な原型プロットタイプ土偶、倍賞美津子がモーレツ美魔女老婆を成している。都会に生きる者たちは潤いを求めているのであるが、タロウが求めていた壺に入った宝物もまた癒しを求めている。彼女たちはイマヘイがいつも表すように、その情熱に見合わないこの世界に満足をしていないのである。清水美沙のもつ憂いは、ここに活かされる。

私の水を、私の蓮を、という表現、面白かった。

愛=非常識であり、そのことをイマヘイは語らしおん。そのことを気付かずに日々生きている我々に、ミズミズシさを語らしおん。エロスそのものである生が瑞々しいのである。ハナシ的展開において、日常の反復的なところが多々であるけれど、そうした日常風景を表すからこそめっぽうにケが実はハレであること、その反転が如実に感じられてくる。日常という時空間、私たちは非日常に生きている。


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