『復讐鬼』
ノムラの八つ墓村だけでなく、イマムラのええじゃないかの源泉もこの作品にあるのかと思わせる。もっとも、この作品の源泉は豚と軍艦にあるように思えるのではあるが。68年以降においてさらに、アメリカでも日本でも、臭いものにも蓋をせず見えていないところを見ていく姿勢が生まれてくるが、政治的なものにおいては、アメリカのディストピアに対する対決姿勢に比して、日本は、上様なんていないから”盾突く”なのではなくとも、縦社会を身体化してしまってる民は草双紙合巻・春画に表されるように笑いを忘れることなく”転覆”を試みる。エロとユーモアとアクションはニアリーイコールな関係にある。茶化すことは民の智慧、しかしそれは毅然として行われなければならない。常に棄民としている我々は怒っている。
立ち姿、まるで松田優作や河原崎健三のようである。憂鬱に反抗的に立ち姿を吉澤健が表す。雄姿がそのままを現されながらも、気分がオモくならないのは、ワカマツがつくりだすモンタージュが軽快だからである。オオシマの理屈っぽいインテリザンスと昭和的な辛気臭さのそうざんす、に比し、ワカマツの軽快さをもって作品は古さを感じさせない現在性を放つ。筋のプロセス的に冒頭で一括して原因を語り、あとは、セックスとヌードのエロと復讐のアクションを重ね、オーディエンスを飽きさせないもの紡いでいく。売れるもの創るという思念、全くもってストレートにノンベンダラリとはさせない。70分という尺のせいもあろうが、沸き立つエナジーが断ち切られずに持続する。アクションとセックス、公権力の転覆、そして大衆の期待感が一丸としたエナジーとしてある。
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