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2018年08月03日00:59

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本史関ヶ原113「決戦前の戦場設定」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」でしたけど、今は創作の作業中です。いくつもの架空展開を創作したことによって、解析データと合致する展開になってきましたね。これで「決戦前」の戦場設定ができそうです。やはり石田三成も宇喜多秀家も「とっくに大垣城を離れていた」と見るのが正解でしたね。

○整理しておきます。豊臣軍団の包囲布陣は、七日の開始と設定。まずは大垣城の西「杭瀬川の西岸」と、大垣城の南側に布陣して「城を巻く」わけです。敵の後巻きは南宮山に出ますから、対応するため「相川の東岸」に置く先陣部隊。敵の進む道を塞いで「城と分断」するために、北で中仙道を締める赤坂の部隊と、南で「南宮山の裏側の道」を締める橋爪の部隊。そして岐阜城と竹ヶ鼻城に後詰め。なお、この時点での豊臣軍団は「敵の全軍が後巻きに出てくるはず」と想定しているでしょう。もしも「豊臣軍団の想定どおり」に敵が出てきたら、家康の到着を待って、後巻きに仕掛けてみて、敵が応じてくれないようなら別の手段に切り替えるのみ。しかし敵軍の中には「経験の浅い二世大名」宇喜多秀家もいますから、仕掛けようはあるかもしれません。あらゆる可能性を「考えておく」べきなんですよ。ゆえに「豊臣軍団の先鋒軍」たる福島正則のいるべき場所は、本来だったら「最前線で仕掛ける役目」の相川の部隊ですが、敵の誰がどこに布陣しても「対応できる」ように、岐阜城で控えていたことになりそうです。もちろん史料根拠はありませんよ?「創作」で設定しているだけの話ですからね?

○吉川たちは「南近江の水口付近にいた」と思われます。そして岐阜戦後、高宮に移動していたという推測。よって、後巻きに出てきたのを九日に設定しましょう。稲荷山も朝倉山もあいているうえ、小早川がいないとすれば、豊臣軍団のほうでは「明日にも撤収する気なのか?」と思うだろうし、「小早川は南宮山の裏にいるのか?」と思うに相違ありません。ゆえに「家康の到着を待たず、後巻きが逃げてしまう前に、早く仕掛けたい」と思うでしょうけど、裏には小早川軍が控えているだけでなく、石田と宇喜多の大軍がいる可能性もありますよね?

○さあ、ここなんですよ。データ解析で何度も書いたこと。「小早川は高宮にいた」の「結果的情報」です。これを作者は知っていても、福島たち「キャラは知らない」んです。「毛利軍と一緒にいる」と見るべき小早川秀秋。豊臣軍団が岐阜戦後に得たはずの情報でも、垂井へ来ていた「中仙道方面軍」は大将が宇喜多中納言で、水口で控える「東海道方面軍」の大将は小早川中納言となっていたと思われます。黒田長政と浅野幸長が秀秋へ手紙を送る際に、わざわざ「瀬田橋の山岡家」の使者に頼んだのも、それがゆえのはず。もちろん、廟算すれば「高宮に誰かが控えている」可能性は見えますけど、それが「秀秋だと決まっているわけではない」ということです。危険を承知で「毛利軍が南宮山の前に出た」からには、秀秋が裏で後詰めを担当している可能性のほうが高いと言えますし、豊臣軍団としては「秀秋が別の場所にいる」と考えるだけの要素は何もないわけ。しかも「秀秋が高宮にいた」という「説」はあっても、史料記述はなかったじゃないですか。では、データを改定して「秀秋は南宮山の裏にいた」とするべき?

○そうはいきません。改定してしまうと「秀秋が前線に出てきたことで、家康の戦術想定が変わったがため、秀秋の寝返り行動につながった」という「史料根拠のあるデータ」が壊れてしまいますからね。ゆえに「秀秋は高宮に残っていた」と見るべきです。だから当然「別の誰かが南宮山の裏にいた」となるはず。吉川が「稲荷山をあけた」のは、余力を残すためでもありますから、石田たち「中仙道方面軍」の全部が来ていることはないでしょう。しかも豊臣軍団が「宇喜多軍を相手に仕掛ければ、やりようがあるかも」と想定していることぐらいは承知のはず。だって「後巻きに全部の道を塞がれることぐらい、百も承知で大垣戦を仕掛けてきた豊臣軍団」ってものじゃないですか。どこが「狙い目」なのかは、吉川も当然わかっているはずなんです。だからこそ「最前線に宇喜多を出さない」で、後巻きには毛利軍と長束正家だけ。よって「裏の後詰め」を任せることもしないでしょうね。秀秋が前線にいない以上は「宇喜多が全軍の大将格」でもありますから、後方の「天満山あたり」に布陣しているでしょう。ゆえに南宮山の裏側「松尾山の東の尾根」に布陣したのは「石田と小西の部隊」二十万石余。人数にして六千〜七千といったところ。彼らは尾根の北側にいますので、橋爪の部隊に対抗する南側には、たぶん脇坂安治らの少数兵力がいたのではないでしょうか。

○これで「後巻きが着陣した時点」においての「大坂側の布陣」が設定できた感じです。ところが「決戦当日の十五日」には、石田も小西も「山中に布陣していた」んですよね?「廟算結果」と「史料記述」が示していたわけです。だとすれば、石田と小西は「途中で秀秋と後詰めを交代した」ことになりますね?「あとで秀秋が出てきた」と「当日の石田と小西は山中にいた」と「吉川の後巻きは南宮山の裏に後詰めがいる前提」の「三つの解析データ」が矛盾なくつながるためには、そう考えるしかなさそうです。でも、なぜ「わざわざ交代した」んです?

○その理由を考えるとき、先に「状況の確定」が必要です。なぜならば、言葉の上では「後詰めを交代した」で「意味が通じている」ような気がするでしょうけど、それは「石田が秀秋を呼んで、交代した」の意味なのか、それとも「秀秋が出てきて、石田に交代を求めた」の意味なのか、二つの状況が「考えられる」からですね。それによって「理由も変わってしまう」じゃないですか。では、状況的に「石田が呼んだ」のか「秀秋が出てきた」のか、どちらだったと見るべきでしょうか。けれども「石田が呼んだ」場合は廟算値と一致しないんですよ。ならば「秀秋のほうが出てきた」ことになりますが、すると今度は解析データとも一致しないんです。どちらの状況も「矛盾してしまう」んですよね。しかし「その矛盾点」にこそ「関ヶ原合戦の答え」があったんです。少なくとも私はそう見ています。早い話「高宮にいたはずの秀秋が、あとで前線に出てきた」のと「南宮山の裏で後詰めをしていたはずの石田が、あとで山中へ下がった」のと、この二つの確定データをつないでも「矛盾しない展開」を、私は「見つけた」わけなんです。謎は解けましたね。合戦展開の創作作業も終わりが見えてきたようです。
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