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2018年07月16日22:58

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影武者



『影武者』
シェークスピア好きなのはあろうけれど、黒澤明がリア王描いたのは、ゴッドファーザーの3兄弟の愛憎確執からの影響もあるのではないか、と乱同様にオペラティックな影武者を観ながら、思えてくるものがあった。ええじゃないかと同じように、倍賞のミッチャンと桃井のカオリンが出ている。むしろ神代辰巳や若松孝二の匂いがするカオリンの、背中の傷がないと分かるときにみせる夜叉の顔、ミッチャンと同様に黒澤は般若なる気持ちを彼女からも引き出している。馬にまたがり駆け回る武者衆が砕け散るシーンは写さず、製作費を抑えるべく、彼らと馬たちが倒れた後のシーンが制作されたと揶揄されたりもしたが、んなあろうはずがなく、黒澤はきっと“死に際”というものに深い関心があったからあれが表された、そうであるはずだと思うのである。彼のかつての自殺騒動も、もう終わった、とは思ったかもしれないが、絶望によって引き起こされたのではなく、“死に際”を想像して行われたのではないかと思えるのである。

死が表される。しかし、ネガティヴなダークのフォースにまみれていることはなく、むしろ再生されし若さに溢れている。当初の予定通り勝新が演じていたとしたら、山猿、いや、山キングコングのように豪放磊落なものナチュラルに表されていたかもしれないが、より形式主義なる美を求めてのこの作品、仲代は見事にハマっている。世界のクロサワはそれを求めていたはず。エスタブリッシュシークエンス、矩形のスクリーンには、右から仲代影武者、灯明、仲代信玄、彼の影、山崎努と横並びに表される。信玄はワルであることを認め、夢をも語る。影は生に寄り添い、夢を織り成しゆく。それは悪夢なのでもなく正夢なのでもなく、あるがままにある生き恥なく生きる姿である。“死に際”に表されるものが影武者だ。勢いもって山の如し堂々と生きている。そしてこの影はまた、映画とはなにかということも語らしおん。極めて形式主義に表される『影武者』であるが、活動写真が生の写し鏡であることは、黒澤は彼のテクストを通して常に表している。



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