ハーイ、ボブ、とか、ヘイ、ファッツアップ、アレックスとか、義理の娘が義理のパパに向かってアメリカだったら、バディみたいな感覚でこんな感じでの、わだかまりなく会話が始まるのだろうけれど、日本だったら、ハーイ、拓三さん、とか、ファッツアップ、吉次郎さん、とか声かけしちゃったりしたらタブーで、やはりお父さんという言葉をだいたいにおいては使わなきゃならないのは、照れも、或いは葛藤もあったりで大変なのかもしれない。『幼な子われらに生まれ』けっこうジーンとくる作品であった。娘さんのわだかまりは、浅野パパが実の娘と会うことに対する気持ちだけが原因ではないとは思うが、作品に描かれる出来事を観ていけば、それも要因にはなっているところ感じる。家族社会の族員がやはりその空間で、愛憎を出しやすくなるし、良いことも悪いことも家族には吐き出せる、新しく生まれてくる子供に対しても、自分の居場所も、思春期における不安はつきまとう。それでも日本は、子ども中心の社会なのであり、浅野パパはその家族社会がどうにかうまくいくよう奮闘する、守りきる男のラストのストップモーション、よかった。
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