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2018年03月10日01:46

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本史関ヶ原77「小早川問題」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、前回は「黒田長政が吉川に宛てた手紙」を解析しました。今度は「小早川秀秋に宛てた手紙」です。

●六一号三番8月25日「差出」黒田長政「宛」吉川広家
●学術文庫8月28日「差出」浅野幸長、黒田長政「宛」小早川秀秋

○講談社学術文庫『関ヶ原合戦』に全文が引用されています。吉川宛てが二十五日付で、こちらは二十八日付。ただし冒頭文が「先書に雖申入候、重而山道阿弥所より両人遣之候条、致啓上候」です。「前の手紙で申し伝えてはおりますが、重ねて」なのですから、これは二通めの手紙です。一通めが何日に発送されているのか、それは不明ですが、手紙に書いた内容は、ほぼ同じだと思われます。前の手紙で「同じ内容」を伝えていますけど、あえて別経由で「二通めを送った」の文意です。前の手紙がちゃんと届くか「不安だった」からでしょうね。山岡道阿弥は、琵琶湖の湖尻にかかる「瀬田橋」を、古来から管理してきた山岡家の者です。「山道阿弥所より」ですから、道阿弥が秀秋に手紙を送るんです。その手紙は「浅野と黒田の手紙を預かりましたので、お届けします」という程度の挨拶状でしかない感じ。そんな手間をかけるのも、道阿弥の手紙を届ける使者は「山岡家の家来」なので、南近江の地理にも詳しいうえ、知人も多いでしょうから、状況を見聞きしながら判断して、間道を抜けていくこともできるからですね。瀬田の山岡家に立ち寄って、情報を得ることもできるでしょう。そこまでして浅野と黒田は「この手紙をなんとかして秀秋様に届けたい」と思っているというわけ。

○冒頭文に続く文章は「貴様何方に御座候共、此度御忠節肝要候。二三日中に内府公御着に候条、其以前に御分別、此処候」です。「あなた様がどこにおられようとも、今度のことでは御忠節が肝要です。二三日中に家康公は到着されますので、その前に正しい判断をなさること、ここが大事なのです」といった意味。この手紙も、文中の「忠節」を「家康へ忠節を示せ」の意味で単純に捉えて、「浅野と黒田が秀秋に裏切り工作を仕掛けている」と解釈されていますが、重要なのは「どこにおられようとも」と「二三日中に家康は御到着」の記述のほう。

○一つめのポイント「貴様何方に御座候共」の記述は、「秀秋が領国を出陣し、大坂に来ていることは知っているが、今どこに着陣しているかは知らない」の意味。それに加えて「山岡家の使者」を使うところを見ると、「秀秋は滋賀県南部にいる」と判断している可能性。史料精査の段階では「この条件に合う理解」ができなかったのですけど、展開を詰めてきた結果、豊臣軍団は「岐阜城の降参後に、毛利軍の東海道方面への展開を知った」ようです。毛利秀元、吉川広家らと一緒にいる可能性を考えて、浅野と黒田は秀秋に連絡しようとした模様です。

○二つめのポイント「二三日中に内府公御着に候条」は、二十五日付吉川宛て六一号三番と同じく「誤情報」ですね。二十五日の時点なら「家康が当初の予定どおりに出発しているかも」の希望的観測と見ることができました。しかし二十八日だと、江戸からの次の使者「米津」が到着している可能性。微妙ですけどね?

○この手紙を本物だと仮定してみましょう。その場合、問題になるのは「浅野と黒田が、今どこにいるのか」と「井伊と本多が、今どこにいるのか」です。竹ヶ鼻包囲戦に戻ったうえで、豊臣軍団の基本的な動きを確認します。全兵力をとりあえず8分割しますと、木曽川の渡河地点「萩原」で後方支援が2、前線の竹ヶ鼻包囲に6の配分となります。ここから岐阜城包囲に切り替えて、竹ヶ鼻に1、萩原に1、松倉町の河田に1が配置され、前線は上加納山に3で、崇福寺村(現代の鷺山公園のあたり?)に2となるでしょうか。岐阜城の降参後は、竹ヶ鼻、萩原、河田は動かず、前線にいた5の内から4が岐阜城の受け取り作業、1が犬山城の処理に行ったのではないかと推測します。信長の合戦分析をしてきた限りにおいて言うと、多少の誤差はあるでしょうが、配置の場所も兵力数も、だいたいこんな感じです。すなわち八月末の時点で、豊臣軍団は五ヵ所に分かれているはずなんです。この内で、浅野と黒田はどこを担当していたのでしょうね。おそらく井伊と本多は岐阜にいるでしょうし、江戸からの使者「米津」は当然、井伊と本多のいる岐阜へ行くはずです。そのとき浅野と黒田が、たとえば「竹ヶ鼻にいる」とした場合、米津の到着を「すぐには知りえない」ことになるわけです。

○黒田長政は子供のころ、羽柴秀吉のもとで人質生活をしていたそうです。一説に「父の官兵衛の裏切りが疑われたので、信長が「息子を殺してしまえ」と命じたのに、秀吉が密かにかくまっていた」という話。こういう俗説をそのまま信じてもしょうがないのですが、「火のないところに煙は立たず」というものでして、話の背景には「長政が奥にいて、北政所のそばにいた」可能性が見えますね。そして浅野幸長は、北政所の妹の子。小早川秀秋は兄の子です。対して福島正則や加藤清正などは「少年期から秀吉に仕えていた子飼いの武将」と言われるわけで、ちょっと立場が違うんですよ。すると手紙には「政所様へ相つづき御馳走不申候ては、不叶両人に候間、如此候」とあるわけです。「政所様につながっていて、政所様に御馳走しないようでは、許されない両人(浅野と黒田の二人)なのですから、こうして手紙を書いたのです」の意味。なにしろ秀秋は、北政所の甥であるだけでなく、豊臣家の養子になり、しかも「北政所が自分の子供のように扱っていた」とされる人物です。秀秋が敗北して、領地を失うようなことになってしまえば「政所様が悲しまれる」のだし、浅野と黒田にしても「秀秋様と戦うような、政所様を悲しませることなど、したくない」と思っていたのではないでしょうか。ところが文庫『関ヶ原合戦』の解説では、「政所様へ相つづき御馳走不申候ては」の文章を、「秀秋は政所様につながっているのだから、秀秋は政所様に御馳走しなければいけない」と読んでいるってわけ。本来、こういう「人脈関係の理解」は歴史学の領分で、私も「過去の多くの研究成果」をデータとして利用させていただいておりますけども、「データ」と「解釈」は別モノですからね?

○ともあれ、浅野と黒田が「書いてもおかしくない」と思える手紙です。書いた時期も、内容も「ありうる範囲」だと言えそうです。問題は、この手紙が確かに本物で、こうして「現存している」としても、秀秋に届いたかどうかは、また別の話ってこと。その点は「関ヶ原合戦の分析」まで、保留にしておきましょう。
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