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2018年03月06日01:55

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本史関ヶ原76「再び吉川問題」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、岐阜城が降参した日、犬山城が降参した日、どちらも正確に詰められそうもないのですが、別の点から見てみます。

●六一号一番8月8日「返信」徳川家康「宛」黒田長政
●六一号二番8月17日「返信」黒田長政「宛」吉川広家
●六一号三番8月25日「差出」黒田長政「宛」吉川広家

○定説化している「関ヶ原合戦」の中で、東軍勝利の絶対的要因とされる吉川の裏切り、小早川の寝返りに関して、根拠史料とされるもの。吉川の手紙を、長政が家康に転送し、読んだ家康の返事が六一号一番。それを受け取った長政が、吉川に報せようとした手紙が六一号二番。内容については、以前に何度も書きましたが、十七日の段階では豊臣軍団も出陣していませんので、輝元が敵対行動をしないように「吉川へ忠告する」手紙です。「輝元へ御内儀、能々被仰入、内府公御入魂に成候様、御才覚」ですね。すると長政は、二十五日に再び手紙を書いているんです。六一号三番の本文は「先書に申入候、相届候哉。兎角輝元御家、相続申候様に御分別、尤候。御返事に委可被仰越候」です。「前の手紙は届いておりますでしょうか。とにかく毛利家が潰れることなく続くためには、よくよく考えることで、それが大事です。詳しい御返事を送ってください」と言っているわけですね。さらに追伸「猶以、内府も早、駿河府中迄出馬之由、夜前申来候」とありまして、「家康は早くも駿府まで来ていると、夕方に聞きました」…。

○最大の問題点は「家康が出陣している。駿府まで来ている」ですね。明らかに間違った記述です。しかし、この手紙をあえて本物だとしてみましょうか。すると長政は、家康の駿府到着を「夜前に申し来たり」と書いています。「夜になる前、誰かに聞いた」のです。「申し来たり」が事実ならば、おそらく「徳川軍」の井伊か本多が言ってきたのでしょうし、それを長政は「敵の吉川に教えてあげている」ことになるんです。この一連の手紙は「吉川が西軍を裏切るように、長政が工作を仕掛けている」と解釈されてきましたが、逆に長政のほうが「東軍を裏切って、情報を吉川へ密かに流している」意味になっちゃいませんか?「だから井伊と本多は、嘘の情報を長政に教えたのだ」と解釈した場合、徳川家では長政を「裏切り者だと見なしていた」となっちゃいます。よって「申し来たり」も嘘だとしましょう。誰かに聞いたわけでもなく、長政自身が「家康はもう駿府まで来ていますよ」という嘘情報を「吉川に伝えた」のだとしましょうか。その場合「家康が出馬した」と伝えることに、なんの意味があるのでしょう?「嘘をついたのが長政」でも、「長政が情報を漏らすことを見越して、井伊と本多が長政に嘘を教えた」でも、吉川に「間違った情報を掴ませる」意味が何かあります?

○「攻めない合戦」で展開を詰めてくると、豊臣軍団は「毛利軍は出てこない」と思い込んでいたのだし、「犬山は味方のようだ」とも思っていたわけです。しかし岐阜城が降参すると、加藤貞泰などの「織田家の与力衆」が帰参してきたことによって、「実は犬山が敵だった」と知ります。ゆえに処理をするわけです。しかも垂井には、宇喜多や島津も待機していて、「岐阜城の救援に出てきた」じゃないですか。ならば当然「吉川ら毛利軍」が「東海道方面に待機中だった」ことも知るでしょう。だから岐阜城が「籠城態勢をとった」ことも、加藤たちから聞いたでしょう。「毛利軍は来ない」どころか、積極的に動いていたことを知るわけです。そのうえ「大坂の側が積極対応に出た理由」が「家康は関東から動けない」と思っていたせいだと知ったなら、長政は「吉川のことが心配」になるはずです。だって吉川は「家康が来る」ことを「まだ知らない」んです。「勝てるつもり」で動いているんです。せっかく家康が「輝元は安国寺に騙されただけ」と認めて、御墨付きまでくれたのに、このまま戦闘になったら毛利軍の敗北…。

○こういう背景のもとで六一号三番を読めば、文章の意味が通じませんか?「家康は来ますからね。もうすぐ来ます。だから手を引くなら今ですよ」と必死に伝えているんです。長政にしても「自分たちの理解が間違っていた」と知って、驚愕したでしょうが、だからこそ、吉川にも「正しい情報を教える」ことで、これ以上の戦闘にならないように訴えているんです。完全な正確情報ではないですが。

●七八号8月23日「差出」徳川家康「宛」黒田長政

○家康が清洲へ村越を送り、帰着した村越から説明を受けて「何もかも納得しました」の返事を書いた七八号が二十三日付。文末に「爰許之儀、以米津清右衛門具申入候之間、令省略候」とあります。「こちらの状況は、米津に説明させますから、省略して書きません」というわけです。この手紙を持って、米津が清洲に到着するのが、およそ二十七日ごろ。さらに岐阜へ行くとなると、二十八日になるかもしれません。つまり二十五日の時点だと、前線にいる者たちは「家康が出馬を延期したこと」をまだ知らないことになるわけです。村越が来たときに「前線では、こういう想定ですから、御出馬は御待ちを」と伝えても、家康が「その通りにした」のかどうか、わからないわけですね。しかも想定外に早く事が進んでしまったので、「家康様のことだから、予定どおりに出発しているのではないか」という希望的観測を、井伊か本多が言ったのかもしれません。長政にしてみれば、それが事実であっても間違っていても、「家康が来る」ことに変わりはないわけです。「家康は来ない」と思っている吉川に「来る」と教えることが重要。

○長政が六一号三番を書いたのは、「夜前申来」の記述により、夜になってからだと思われます。石田軍ほかの救援出陣、および岐阜城の降参は、二十五日と見るべきでしょうか。事が早くに終わったから、「もう出馬している」の希望的観測が流れた。事が終わったからこそ「輝元の想定」を長政も知ることができた。この二点を踏まえると、岐阜城の降参表明のあとで書かれたものに思えます。この手紙が「本物であれば」の話ですけどね。内容が少なすぎて、確信は持てません。ただし、これが「攻める合戦」で書かれた偽造史料だったならば、「家康の駿府到着」という誤情報を「わざと偽造者が書く」理由が、まったく見えません。
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