『奇跡の海』は物語っていたけれど『汚れた血』は物語ろうとしていない。『奇跡の海』のシネマヴェリテなものは、ドグマ95をはじめたこともあろうが、あの物語を表すにあたって最良のメソッドだったから選択されたのであろうけれど、フォントリアーはなによりも物語ろうとしていたのに比し、『汚れた血』は全く違ったところにいる。カラックスは物語なんて、劇映画の手段でしかないから表しているだけである。しかし、愛は詠われている。
かつて観たときは、これはコメディなのか?と思った。物語ろうとしているものと表現が全くもって乖離していたように思え、表現が物語を露骨に超え出てしまい且つアレックスのナルシズムが露骨に感じられたからである。今回は、愛の詩を視せ聴かせながら、テクをフルに稼働させ表現しているセンスがオモシロく感じられた。そのセンスってヴィゴが『アトランタ号』で表したのと同じもの。『汚れた血』はボーイミーツガールとキスキスバンバンの範疇において、愛の詩を表現する。カラックス、やりたいことをきっとフルにやってるな。

ログインしてコメントを確認・投稿する