まずは、これらの作品がアメリカにおいてこれらの作者の作品としての認識が強いから、この表紙は拍子抜けするぐらいにフィットしたものであるにちがいない。
Douglas Keesey著 “Paul Verhoeven”(左)
Luke Buckmaster著 “Miller and Max: George Miller and the Making of a Film Legend”(右)
美は歪められながらも、卑俗ではなく崇高へと向かっていったのである。エイティーズ、過剰なるやりすぎが過熱し、映画はそれまでの甘美なるメランコリーから遠ざかっていった。
パトスがあった。
過剰に飽きて、或いは禁止によって消失する現在をもってしても、それは原始人が持っていた痕跡のようにして残るものであり、このパトスは確かに人間性に在るものである。
ロボコップと書いてヴァーホーベンと読む!という迫り来る勢いが感じられる。メディア社会で人々が倫理基準をマスコミュニケーションに依拠してしまうことに物申すかのようにズッドーンと打ち込むパワー、或いは『氷の微笑』やオランダでの作品における、見えないものをあるがままに見るように、さえぎるないものを見るように託され、ヴァーホーベンの視覚や脳に、意識に対する挑戦は、スッポンポンに丸裸にされる理性に還される。
メルギブソンのキリスト原理主義に比し、ミラーはワイルド原理主義者である。人間性の回帰は自然、すなわちネイチャー(本質)に戻ることと言わんとするジョージミラー、近づこうものなら何をしでかすか分からないマックス、そして家族向けでもペンギンや子豚ちゃんもまた、鳥獣人物戯画のようにカワイイではなく、アニマルとヒューマンがもつワイルドネスの究極を表すかのようであり、むしろドクターモローのような恐ろしさをミラーは持つのであり、それは彼のテクストを支配するべくニコニコと暴走しながら描くミラーの狂気からも感じられるのである。

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