山田大林テクストを観すぎになてしまい、大林のなごり雪を観ていてももはや頭の中になにも入らなくなった。むしろ脳が印象を排除しようとしているかのようにも思えてくる。ノワールである。それはそれで危険なので、志向性を他に向かせなければならない。観すぎは危険であるが、今度の正月は、寅さん48作どこまで耐えられるか1作目から観ていこうかな。
フィルムノワールはフランス語が使われているにもかかわらず、そしてそれがフランス映画のそのジャンルだけを指すだけではないにも関わらず、英語圏映画を含む映画のほとんど全体において、映画の語彙として罷り通っている。カイエ系の人々たちからだろうか、フランス人がアメリカ映画におけるフィルムノワールを発見したから、ノワールは語彙に使用される。戦時中に照明をたくさん炊けないからそれを利用してあの暗さと犯罪を描く内容が生まれたとも言われるが、なにはともわれ、多くの人々を魅了したからこそ、語彙として定着したはずである。また、創り手からしても、男女の愛憎、犯罪、アクションはまさにキスキスバンバンを地で行くようなもの、魅了されるのは分かるものである。そう言えば、ジャンピエールメルヴィルがジョンヒューストンのことを言及していたこと、そのときなにげに読んで気が付かなかったけれど、いま合点がいくのである。
この一年以内のどこか、たてつづけにタランティーノとコーエンズを観てきたが、『デス・プルーフ』と『ビッグ・リボウスキ』を再び観たくなる。多岐的な内容を描くが、彼らは出自はレザボア・ドッグスとブラッド・シンプルといったようにフィルムノワールだし、ところどころノワールな作品には回帰する(てか、タランティーノはその総てが、フィルムノワールだと言ってもおかしくないような作風である)。そしてこないだのとき、未見になってしまっていたヘイル、シーザー!とキル・ビル、観てみたい。
もちろん、念願のリヴェットとヴァルダも、である。
そしてオゾンとゴンドリー、トリュフォー。
あれってなんだったんだろう、と過去のモノが現在に潜り込んでくるときに、『大人は判ってくれない』ではなく、『トリュフォーの思春期』。そして、『危険なプロット』と『グッバイ、サマー』。『危険なプロット』は絶賛のわりには意外性なく、パターンの寄せ集めに思えるものであったし、『グッバイ、サマー』も70年代から80年代にあったような仏蘭西青春映画にゴンドリー的ドンチャカを付加したようなものであったが、時が過ぎ去ったとき、あれってなんだったんだろう、と想わせるものがあるのである。或る思春期にも似た感情なのかな、まさにあれは。
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