ストロング小林は腰痛欠場に入る少し前の81年10月8日、蔵前国技館で行われた新日本プロレスと国際プロレスの全面対抗戦(国際は団体崩壊しており、実質的には名前だけの対抗戦)のメインイベント、猪木vsラッシャー木村戦において猪木が反則負けし、対抗戦が継続されることになった時、やはり元国際からの移籍組だった剛竜馬と共に、国際軍団に組み入れられそうになったことがありました。
しかし、早期戦列復帰は難しく翌82年には髪の毛をスキンヘッドに剃り上げてストロング金剛の芸名で真田広之、渡辺典子主演の角川映画「伊賀忍法帳」に出演しました。
金剛の名前はこの映画の役名である金剛坊から来たものです。
82年9月21日、大阪府立体育会館で行われた猪木vsR木村の敗者髪切りマッチではリングサイド最前列に陣取り、国際軍団に加担、場外乱闘の際猪木の背中に数発パンチを見舞った他、セコンドにいたアニマル浜口に鋏を手渡すなどのアクションを起こしました。
実際にこの年11月の第3回MSGタッグ・リーグ戦ではR木村とのタッグで参加が検討されチケットにも名前が記載されましたが、TBSテレビ系バラエティ番組「風雲たけし城」の撮影中に痛めていた箇所を再度負傷してしまいました。
復帰に向けトレーニングを積んで来ましたが回復せず残念ながら43歳で引退試合を行うことなく引退となりました。新日本プロレスには75年5月の入団の際、取締役として迎えられていましたが84年7月末で退任。
白のスーツ上下に身を包んだS小林の引退セレモニーには新日本の顧問に就任していたかつての師匠、吉原功元国際プロレス社長もリングに上がり挨拶を行っています。
しかし、長年の国際プロレスの経営によるストレスとそれに起因する過度の飲酒は吉原の肉体を確実に蝕んでいきました。
この日はテレビ中継もなく、猪木も欠場中で会場に姿を現さず、観客は3200人(超満員)発表でしたがかつて一時代を築いたトップレスラーの引退興行としては寂しいものがありました。
メインイベントは坂口、藤波、木村健吾組vsロジャー・スミス、デューク・マイヤース、トニー・セントクレアー組の6人タッグマッチで藤波がセントクレアーにフェンスアウトの反則勝ちとなっています。
一方、田園コロシアムにおける初の全日本プロレスの主催興行を成功に終わらせた新日本プロレス興行の大塚直樹社長は新日本プロレスからの絶縁宣言を受けて翌8月27日に早くも記者会見を行いました。
大塚社長は「これで馬場さんのところの興行に専念出来ます。私達は独立した法人であり、新日本プロレスの子会社ではない。新日本プロレスの考え方は理解しかねる。こうなったら、私と懇意にある新日本プロレスの選手に全日本プロレスのリングに上がってもらうように声をかける」と報復宣言。
さらに「選手のプロダクション化も考えている。新日本プロレス興行という名前も紛らわしいからその時期が来たら社名を新しくしようと思う」とコメントしています。
8月29日、高崎市体育館でUWFの第2弾シリーズ「ビクトリー・ウィークス」が開幕。マーク・ルーイン、フレンチ・マーテル、ピエール・ラファエル、ザ・UFO(ボブ・ダラセーラ)、ジャック・スヌーカ(ジミー・スヌーカの弟という触れ込みだったがそのような事実はない)といった外国人メンバーが来日しましたが、同シリーズには「カール・ゴッチ最高顧問就任記念」という冠がつけられました。
伊佐早敏男企画宣伝部長は7月の無限大記念日の時に「新日本プロレスのサマー・ファイト・シリーズが終わったら何かが起こる」と予告していましたが、現役選手ではなく新日本プロレスのストロングスタイルの象徴、猪木の師匠として神様と崇められていたカール・ゴッチがUWFの側につきました。
これはストロングスタイルを標榜する新日本プロレスにとっては痛手でした。
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