『百年恋歌』
エドワードヤンのテクニカル的斬光きらめく写し絵とちがい、ホウシャオシェンは日常を写し取り繋げてゆくこと、淡々として風情におちいらせることはなく、それは寧ろ、映画と我々オーディエンスとの関係性(ノエシス)のなかで穏やかな流れに悲喜こもごもを紡ぐこと、第一部「恋愛の夢」の自然と心から笑みが込み上げてくる男女のように、その間柄は我々にスクリーンに映る作品と心通わせ安堵し心身をまかせ預けること促し、第二部「自由の夢」の男女のように、状況と乖離のなかで悲嘆を喚起させ、疾走から始まる第三部「青春の夢」において不安と死を空間において共有させる。我々はその空間において、日常を覚醒することができる。喜怒哀楽している。
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