映画作品に在る浮遊感、と書きながら、、映画の方はけっこう最近は森田相米大林の珍人類映画がアタマのなか蔓延っているけれど、ハンプヤユヨマサルを聴いているからかな、彼女たちより一世代上だけれど近い感じ、ミレニアムなテクスト群の山下敦弘石井裕也今泉力哉が浮遊感という感覚ではアタマに浮かんでくる。藤田敏八に表されるようなシラケ世代の浮遊感が理想が木っ端みじんに分からなくなった後のもののように思えるけれど、そうした彷徨感とは、ミレニアムゆえ違うとは思うけれど(闘争の時代に憧れ或いは想像するということはもしかしたらあるのかもしれないが)、三人とも夢感覚な浮遊感だけれど(映画であるがゆえそれは他の多くにもあるのだろうけれど)、山下敦弘の浮遊感は三人の中では一番の夢感覚あるものであり、登場人物たちがなにかMrマリックのように宙を浮いて進む感じ、スパイクリーの台車の上に乗って登場人物たちが進むアレみないなもの、なんて言えばいいのか、、、「浮足立つ」なのかな。この言葉を調べると、「落ち着きをなくし、今にも逃げ出しそうなこと」を意味する一方「期待で目の前のことに集中できないこと」も意味するようで、山下敦弘テクストにはそのふたつが同時にあるような夢想感覚があるな、と見てしまう。石井裕也の場合はもっとリアルに近いものであるがやはり浮遊感がある。足をしっかり地につけ歩いている。も、目的もって歩いていてもヒトは目的を失う場合も多々あるけれど、そうした彷徨感があり、ある意味、三人のなかでは一番ドラマ的なもの表されているのかもしれない。今泉力哉の場合は、登場人物たちも普通に生きながらも彷徨している観あるけれど、彼らよりも寧ろ彼らが住む(都市空間というより)街空間が浮遊しているセンスがある。浮遊している街空間であるシモキタとか、あちこち。そんなそれぞれの浮遊感がフとアタマに浮かんだ、となる。
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