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2023年10月13日17:56

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改訂版 『ラストタンゴ・イン・パリ』

前に書いたものがFacebookにリマインドされたけど、ミクシィのどこに載せたか分からず。よってまた載せる。


改訂版
『ラストタンゴ・イン・パリ』(ベルトルッチ;1972)Last Tango in Paris
  冒頭のメトロ高架線の下にいるオトコは『革命前夜』の青年の成れの果てか観念の成れの果てか、、それは観念そのものなのかもしれない。影はつきまとう。オンナは恐怖しながらも関心を向ける。彼女は安定を求めない。オトコは不安定な生き物である。男性自体が謎の観念めき、ローザの死は我々に十人十色に投げかけられる。我々はそのエキゾティズムに生きるとき、ヘミングウェイやジーンケリーだけではなくベトナム戦争やウォーターゲートといった混沌をも、或いはインドチャイナもアルジェリアもエトセトラ、その巴里のアメリカ人に見出すだろう。闘争など終息を迎え安定に戻るかのようでありながらも実は、今へと続く不安定なる時代の幕開けだともいえる72年。
   ジャンヌはポールとあのアパートでセックスをしたあと、駅で夢中に探し出したトムとキス。本当とホント、ポップと夢と現、、この巴里を舞台にしたテクストは、“現実”とフィクションをレイヤーし現実への参加を託すゴダールと違い、現実とフィクションの境界線を曖昧にしながらもモノガタリでそれら視せ聴かせ“イストワール”を現出させる。“現実”とは違う現実、そしてフィクションは等価のものなのか。ベルトルッチはヒトが囚われる観念を人間性において探究する現代社会に表す。影は灯され、主人公そして我々はクエスチョンを思考する。
   ポールはジャンヌと無邪気に動物を真似て戯れ、トムはジャンヌに子供に戻ることを託す。彼らはプリミティフにしてきわめてアダルトなのである。コワルスキー的にゴリラとなるブランドと映画に浸るピエールレオーはどちらも退行的であり、それゆえシネマ的なのである。映画的記号をもまた体現するふたりを相手に、新人のマリアはシネマと戯れる。
   シネマは記録すると同時に表現し、カイヨワ的な戯れのその性質を溌剌とさせる。ゴダールにもパゾリーニにもイズムがあるなしに関わらず、まず表現者としての彼がいて、記録する者としての彼がいる。それと同じように、ベルトルッチの戯れは影を現出させ、観念の歓喜を演出する。イズムに翻弄されながら感情に生き、人は己を意思主張する。人は抗いながら謎に魅了され、探しそこに生きる。記憶は偶発的なものであり、観念の外に在る。
   思い出は残されたまま、オンナはその部屋のなかシャッターを閉める。その途端、オトコは突然現れ、彼自身のことを陽気に、洗いざらい吐き出しゆく。終盤のダンスホール、ロストジェネレーションの末裔と大人から本当の話を聞かされればされるほど嘘に思えてくる若者がいる。世紀末へと向かう時代に、彼らはタンゴとは言えない儚く危険なラストタンゴを踊る。
   あの部屋で閉じこもりイリュージョンに逃避しているかのようなポールは、シネマに没頭するトムとかわらない。或いは、トムの方が寧ろ、あの部屋から去り大人という生き物を知っているのかもしれないし、イリュージョンを最初から抜け出しているのかもしれない。
   ラストの女の姿と言葉、逃避志向の逃避主義者のふたり、或いはアメリカから来た人物とフランスの人物というところで、勝手にしやがれ的なゴダールへのオマージュに思えるし、それもありえるのだろうが、寧ろ、男性自体が謎の観念めいているところや母性(死んだ妻)に対する愛憎やオブセッションや父性に対する強迫観念を持ちながらも自ら父権主義に陥りかねない男性性においては師匠のパゾリーニ的なものがある。また、ポールはジャンヌの陽気さも愛するわけであるが、モジャモジャ頭のマリアシュナイダーはニネットダボリを彷彿とさせるところがある。それもキャスティングのときにベルトルッチには頭にチラッと浮かんだのかな。



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