トミーおもしろかった。かつて観たときの記憶は、ザ・フーのファン観で満を持して期待しすぎて観たからか、なんだバーバレラやロッキーホラーショーの方が断然おもしろいじゃないか、であったが、今回はケンラッセルの作品という感じで観賞し、彼のクセ、というか傾向もふんだんに出ていて、おもしろく観賞することできる。ところで、かつては、長く生きるのはダサいのか、ロックスターたちは若くしてドラッグのオーヴァードーズでほとんどがお陀仏していたが、最近はアラウンド・エイティーでアリーナを駆け巡る時をかける御爺ミックジャガーに導かれるように、松田聖子も薬師丸ひろ子も吉永小百合も精力的にエイジレスに活躍している。永遠性である。トミーのラストはそうした永遠性を表しているかのように思える。じっさい、ダルトリーとタウンゼントもエイジレスに飛び跳ねまくっている。
キューブリックのクールなカメラアイは、ここぞというときに早いパンをしたりで、ほとんどはジッとな感じだから、レンズを通してスクリーンに映された出来事を観ている感覚でカメラを感じさせないけれど、ケンラッセルのぶんまわるカメラアイは否が応でもカメラを感じさせる。されど、そんな動き回るカメラアイに、矢継ぎ早なモンタージュは、物語を語るミュージカルというよりもMTVの先駆け的な音楽のヴィジュアル化としてトミーに上手くはまっており、ロックなんか聴いたことなかったの本当か?と思わせるラッセルの、マーラーなんかですでに見せているセンスはまさにロックにフィットしたもので、フツーに溶け合っている。魂の探求から愛の探究へ、へと変化するような最終盤、信者はみないなくなっても、まるで信者が彼についてきているかのように歌うトミーは、幻聴でも聴いているのか、となるも、ぶんまわるカメラアイを通して我々オーディエンスは彼についていってるのであり、そこでトミーの永遠性は担保される。好きであればなおさら永遠性を受け入れるだろう。母も義父もトミーにとってはそんなに悪いヤツではないけれど、とりあえずファーザーを殺してはいるし、死も受け入れられ、でもって、トミー自身がファーザーである神父となり、父親が朝日に照らされる冒頭と重なるラストが表される。戦争を知っている子供たちのタウンゼントらザ・フーにとって、父親の死は戦争の傷みと重なるものであり、そしてトミーはラスト、それに変わるニューエラという永遠性を掴み取るのだろう。
P.S.
なにも見てないなにも聞いていないと言われ、見らず聞かずの引き籠りになったトミーは、強制したアンとオリヴァーが死ぬことにより、さらに呪縛は解かれ、そして世界を見て聞くことができるようになる、として、トミーはなにを見て聞くのだろうか。内省的なものとしてのそれなのか、開かれたものとしてのそれなのか。永遠性にあるものとはたぶん前者であり、ヒトがいつも持ち合わせる痛みとしてのそれであるがゆえに、分かち合えるのではないか。だから、ああした表現をしたのだろう。
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