85年3月19日(火曜日)のテレビ朝日「ニュースステーション」で唐突に発表が行われました。「世界最強のプロレスラー、ブルーザー・ブロディ選手の新日本プロレス移籍が決定致しました」と新日本プロレスとテレビ朝日は報道番組の中で、14日まで全日本プロレスで試合に出場していたブロディの新日本プロレス移籍を発表したのです。
ブロディは2日後の新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」最終戦の3月21日、後楽園ホールに片手に花束、片手にチェーン、グレーのスーツ姿で来場、南側スタンド後方に姿を現し、メインイベントでハックソー・ヒギンズと対戦する猪木とリング上で対峙。
「猪木の眼にバーニング・スピリットを感じた」という名台詞を残し、以後新日本プロレスを主戦場にしていきますが、こちらの詳細については別連載「猪木とビンス最終章」詳しく書いてありますのでそちらをご一読頂けると幸甚です。
当時は「長州力、ロード・ウォリアーズをメイン登用したことに対する不満」とも報じたマスコミもありましたが、実際は前84年暮れ、全日本プロレスの「世界最強タッグ決定リーグ戦」を終えて帰国したブロディを、猪木の密命を受けた山本小鉄が、テキサス州サンアントニオのブロディの自宅に訪問して口説き落とし、「一本釣り」に成功していたものでした。
小鉄は全米のトラブルメーカーとして知られるブロディが唯一アメリカで「頭の上がらぬ存在」としているダラスの大物プロモーター、フリッツ・フォン・エリック(ジャック・アドキッセン)にアメリカ修行時代可愛がられており、日本プロレス時代に息子ケビン(当時14歳)を連れて来日した際、世話を焼いていた実績を買われてネゴシエーターに選ばれたものでした。ケビンの面倒をよく見たのは小鉄と当時の日本プロレス外国人係のジョー樋口レフェリーと言います。
最も、この時にテレビ朝日の「ワールドプロレスリング」中継班も同行、ブロディの自宅でのトレーニング風景や外をランニングする映像を撮影しており、話は既に着いていて、小鉄は気難しいブロディの気が変わらないように最後の契約に出向いたとも考えられます。
また、ブロディのワガママぶりにはさすがの馬場も手を焼いており、「馬場がブロディを切りたがっている」と新日本プロレスにリークしたマスコミがあった説もあり、新日本プロレスからの引き抜きがあった時にはわざわざ記者会見を開き、猪木と新日本プロレスに対して苦言を呈する馬場がブロディ移籍に関しては大騒ぎしてなかったことを勘案すると、少なくとも寝耳に水ではなく、ジャパンプロレスが来て飽和状態となっていた全日本プロレスのリングからブロディが抜けることはむしろ歓迎だったのではないかとも思えますし、
79年1月の初来日からブロディを6年間も使っている馬場は「どうせ、猪木のところに行っても長くは持つまい」と考えていたフシもあるかと…
その上で「激闘!エキサイティング・ウォーズ」の両国、名古屋でのビッグマッチにおけるブロディの扱いを考えると腑に落ちるというか話の辻褄は合う、という訳です。
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