共和制確立までの自我の芽生えの百年ちょっと、その間にイズムはロマン、理想を排し社会を写実するレアリスム、サイエンスにリサーチされることとなる自然と変わりつも、或いは、文芸的にユゴー、バルザック、ボヴァリー、ゾラと変わりつも、変わらぬ始原としてラロシュコーやルターのあるがままの現在をみつめるモラリストの自己愛があるのではと、カルネもコクトーもヌーヴェルヴァーグも左岸派も、そしてオーランシュ=ポストのある種の傾向ですらも、カラックスもオゾンも観ては、そう考えてしまうのである。ここで言うモラリストとは道徳を有するヒトの意ではなく、あるがままの日常を切り取り人間性を批判的査察し欲望的本質を露と表現せしめる作家を意味する。モラリストはエクリチュール研ぎ澄まし今此処である現在を切り取る。
ドゥミの『都会のひと部屋』。冒頭から続く2曲、母と娘の愚痴が歌詞とは驚かされるが、現在をあるがままに切り取るということでは、それはヒトの日常のまさに切り取り、叙事詩的である。レントはラボエームだけではなく、この作品もヒントにしているのでは?となる。状況という状況を描写するうえでストライキは大事なもの。人々の意志とロマンはフランスを語るうえで大切なもの。1789年のあの日からフレンチ魂、抗いながら己のロマンス現前せしめることに命を懸ける。右にならえの日本では、只の我儘変態ビッチとしか捉えられないドミニク・サンダでも、フランスにおける彼女演ずる女性はフランス的な自己愛のなまもの、セルフセクリファイスするシェルブールの雨傘よりも太陽的サンサンとイキイキしている。コロンビエのフュージョンなメロにのってドゥミらしさの原色の色艶をいろどらせる。エロス/タナトスが過激に彩られる。
リヴェットの『地に堕ちた愛』。代役をすることにより現実という肌の温もりに接せざるえなくなる二人の女優たち。ふたりは寂しさ抱える女性たちと出会い、幻視/幻聴と邂逅する。キューピー像を壊してしまうアンビバレンス。ヒューマンとミメーシスがせめぎあう。美しき諍い女における裸体と絵画の対峙のように、昇りつめ虚脱するかのようなエクスタシー、地に堕ちる。ベルクソンが言うところのライフフォース、これに充ちヒステリーを所々に散りばめ、かろやかな陽気さも散りばめ、仮想の力は子宮から宮殿に散布される。現実の切り取り、作者の死も生き生きとした登場人物もリヴェットの映画ならではに現前している。
都会のひと部屋 Une Chambre en Ville
地に堕ちた愛 L'amour par terre
ログインしてコメントを確認・投稿する