『どっこい生きてる』
俯瞰からの民衆の図はやはりデシーカ、ネオレアリズモの波は世界中に波及していたから、これはこれでおもしろい。特需景気によって民衆のしわ寄せが、行き場のないセンスを起こすこと、当時におけるリアルであり、このことは現在においても降りかかること、あまりにも身近にある危機としてある。起こっている出来事から距離はあれど、こころはそこに強く結びついている。民は真実性に歓喜する。ネオリアルとは事実ではなく真実であり、物語りに在る民のこころ、その核に思い描かれるもの。彼らのこころに響いたときに納得される身近な心象風景がそこにある。物語りはこころの中で語り継がれるに然るべきもの。響きあう。それが映画というリアルに表される。
不幸が立て続けに起こることはやはり、あまりにも映画的にみえるクライシス。昭和には、例えばカルピス劇場フランダースの犬やある愛の詩のように、ヒトが徹底して不幸に陥っていきそれにオーディエンスは涙し最終的には自分の身に降りかからないことでホッとしながらも同情するカタルシスが多くあったが、この作品におけるアンハピネスの連打もまた、そうした不条理を物語るストラクチャー。しかし、それもまた物語りという真実のリアルである。
リアルは劇場空間に響き合う映画的真実として在る。庶民の数奇な運命が表されるところは、前進座を配し生世話物としてオーディエンスを沸かせ、歌舞伎のもつスター性を発揮する。特に、酔っぱらった長十郎のアクト、日本のフォルム的演技が待ってました!とばかりに表され、芸事世界に観客をいざなう。舞台芸事が出来事と織り成され、と同時にそのとき、シネマとしての責任が果たされる。最終盤はやはりよかった。池のなか息子を救うために歩き進む長十郎、よう!なんとか屋!の大向こうも消し去るぐらいの現実のモメントをそこに表している。舞台とは違う、映画ならではの生々しさに歌舞伎フォルムは池の中、その真実性に溶けて混ざりゆく。映画的真実に触れ、民は生きる勇気に融即される。生きる勇気をもらうのである。
『裸の島』
三文役者の音楽で林光のファンになったが、この作品の音楽もよかった。早坂文雄の弟子なのか、と思わせる音楽のセンスであるが、日本の伝統ドラミング音楽にはジャージーな響きも入ってきたりして、また、メイン曲のメロのちょっと裏声的に聴こえるサウンドはとても独自なるものを感じてしまう。そしてそのメロ自体、癒される懐かしさをおぼえる。『人間』は性の解放を謳ったその後の作品に通じるギラギラしたもの表していたが、これの一つ前のこの作品は、家族愛や男女の愛を優しく見つめるかのような、未見であるが『愛妻物語』の流れを組むものなのかというヒューマニズムを感じる。会話のなさの不自然さも、会話をしているであろうところはカメラアイが遠くから光景を抑え、全体的にはそのモンタージュとデクパージュ、音楽を観ているかのようにナチュラルであり、作品に表される自然に相まり気持ちは気持ちよく委ねられる。新藤兼人において、母性とはとても重要なキーワードなのだとみえてくる。ワカマツの場合はあまりにも表象的に表される母性も、シンド―においてはその深度、リアリティーあるものとして深められる。論理的に分析できなくとも、新藤の母性の顕れ、その喜怒哀楽は生活の中で現れるものとして身近にディープに感じられる。働くこと食べること、耕す土地に与えられる水、水桶と撓り、運ぶ者たちの身体、町や祭りの潤い、島や海、空といった自然の潤い、そして生活の中に生まれるモーション。この作品もまた、生きることの勇ましさを教えてくれる。
『荷車の歌』
『どっこい生きてる』もまたそうであるが、この作品もひとくちいくらの資金提供のもと製作されたグラウンドファンディングを先駆けた作品。民の皆が創り上げた作品、要望に応えることも、ヤマサツらしい分かり易いものの語りでストラクチャーされる。冒頭のほう、林光の音楽がそうであり描かれる風景、まるでフィフティーズのアメリカン・ホームドラマである。オーディエンスを惹きこませる。その後も日本人には馴染みのもので惹きこませる。日本のドラマには定番の花登コバコにも桂ざこばにも渡鬼にも表される庶民の姿、働き稼ぎ養し愛すこと、マッチョで神経質な弱さあらわす父性が頂点としながらの母性社会、子供たちへの想い、嫁と姑の間のもめもめ出来事&和解、娘ら子供たちの献身、村民たちの助け合いと、えとせとらの家族愛。生き抜く人間のサガが謳われる。このサーガ、『どっこい生きてる』と『裸の島』と同様に、ホームドラマというイメージを届ける。現在における人間性の崩壊は戦争がおこなったというより、戦後の思想を抜き去り豊かにどんどんなるパルコの個の時代がさせたのであるが、それだとしても、いつの時代になろうとも、親子の絆がなくなることはないのであり、辛抱すれば夫婦の情愛も育まれる。おしんが辛抱辛抱と悟らせようとしても、いつまでたってもココロ豊かな時代にならない現在から顧みれば、この時代のホームのイマージュ、喜怒哀楽の豊かさとても実っている。イマージュは真実として、現実としてそこに在る。前歯を全部抜いたミクレン(註1)凄い。彼と同じようにイマヘイだけではなく左幸子もまたヤマサツで異能を表す。彼女は妹たちを使いながら自由に千差万別にヘンゲする。まさに怪優であること、ミクレンとなんら変わりなく凄し。そして望月優子、日本人らしく一歩下がったところでオンナを気丈に表現する。奥ゆかしくも人としての品位をみせる。昭和が素晴らしい。荷車を運ぶ姿に、昭和がにじみ出る。
註1 三国連太郎のことである。
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