『ゴースト・ドッグ』
★ 空をマッシグラに飛ぶ鳩によって、此処ではない何処かであるエキゾティズムにいざなわれるというよりも、その鳩と空のイマージュそのものが或るエキゾティズムとしての精神世界あらわされる。
★ かつて観たときはポール・シュレーダーが小津安二郎を日本風抽象的ななんでもかんでもをなんでもかんでも禅に結び付けるのと同じ感じの、ノンジャパニーズがステレオタイプに捉えた侍武士道が描かれているように思えたのだけれど、それはそれで、個人個人それぞれの解釈的な見方があるわけでもあり、それもあり、或いはそれはジャームッシュのテクストにおける映画的真実なのだと、思いながら観てしまう。
★ Oh! マイ・ロイヤリティー、マイ・ロード、私は貴方のシモベです、と勝手に敬うマッシグラのゴースト・ドッグも迷惑なハナシであるが、恩義や義勇の義において、訳が分からないけれど、それは大事なことなのであろう。義は誰しもが持つものだけれど、解釈の違いは薮のなか的に生まれている。
★ クールなモードだけれどスットンキョなムード、それはジャームッシュがいつも常日頃から表わす彼のテクスト性に顕れるもの。そして、愚直なぐらい不器用にマッシグラな人物たちが表わされる。これもまさにジャームッシュしている。人物たちは解釈の違い、それも微妙にズレたなかで作用する。そうした齟齬が、ジャームッシュにおいて、ストーリー的な要素を成すものとなる。
★ ゴースト・ドッグとルーイの関係性、ルーイとボスとの関係性、ソニーという人物、ボスと娘との関係性 → 義と●●の差異。
★ 助けてもらったと解釈するドッグ、撃ってこようとしたから撃ったとするルーイ、ドッグを見つめるドッグにその意味が想われる。ドッグはそのモメントにいただけ、それだけかもしれない。しかしながら、彼はそのモメントを一期一会に敬う。
★ ボスの器ではないルーイ。
★ 言葉が互いに分からなくても分かり合えるゴースト・ドッグとフランス人レイモン。
★ 能動的に本を読むゴースト・ドッグや少女、そしてボスの娘。受動的にアニメを見るボスや子分。ボスは本を読みながら(或いは只ながめているだけかもしれない)アニメを見ている。
★ カッコいい音楽とラップを解釈して愉しむソニーと精神性としてラップを内省しているゴースト・ドッグ。
★ 容易に人をあやめる銃というもの、銃を使用するということもまた、メッセージとして表わされる。刀の使い手による刀の意味が大事なことと同じように、銃の在り方が問われ表わされる。ゴースト・ドッグがレイモンから銃を取り上げるシーンに、そのことが表わされる。ルーイの謝ちを犯しての使い方にも、羅生門の感想を聴かせてくれと笑顔で言って死んでいくゴースト・ドッグに表わされるように、意味は在るのである。
★ 意味が在るということは、あまたインサートされる葉隠の文字によって、人生に問われている。
★ 武士道らしく、生き方の指示が表わされると同時に、知への問いもまた数多あらわされる。
★ 孤高とオッタキーの差同。
*本を読むゴースト・ドッグ
*アニメばかりみているギャングたち
*でも、あまり違いないのではないかな、とも私的には思われる。ジャームッシュ自身もその差同を表しているのではなかろうか。
★ 表層性から内省への変化は、ジャームッシュの文学者的な面がそもそも持っているものとして映像のなかで外延してきているのだと思われる。
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