象徴が取り外された現実が表わされる。勅使河原の主人公は個であることを受け入れる。彼は最初から個として在る。赤瀬川と組んだテクストにおいては、主人公には文化人としてのプライドが色濃く表わされ- それゆえ彼は孤高である -ながらも、個を自覚するという以上に、人との結びつきを羨望している。安部公房と組んでいたときのドライさはなくなり、和を求めている。歳をとって丸くなったということなのではなく、たぶん、文化のなかで生きる人というものへの彼の考えが反映されているのではなかろうか。短編もふくめ、民のカオスが表わされる。イマヘイが表わすような人の生きるエナジーもまた、その混沌としたものには表わされているのであるが、コワさのようなものもまたそこには表わされている。不信ではない。社会を、或いは環境を、そして文化を宿す根源がそこにはある。
青春とはメランコリックなトラウマである。松本の劇映画テクストには、常に、青二才のような若者が主人公として表されるが、彼らには常に母性との関係性において、なにか確執めいたものが表されている。彼は安堵を求める。それは赤子が得たいかのような抱擁めいた何かである。刹那めきながらも切ない想いが生まれている。主人公は象徴界に生きながらも、父性的存在が支配する社会に生きているというよりは、そうしたトラウマを抱え生きている。トラウマが己の象徴的存在を導き入れている。象徴はやがて裸のままの現実で、己によって取り壊される。
『砂の女』において、タイトルにも表わされる生の根源的な存在である岸田今日子よりも、岡田英二に関心が向いた。最初は自らを社会的存在だと信じている岡田英二と違い、『他人の顔』の仲代達矢は最初から個としてその姿を表している。『燃えつきた地図』の勝新はハードボイルドな探偵らしく孤高に生きている。不可思議な人間は個を(再)認識する。『薔薇の葬列』のピーターも、『ドグラ・マグラ』の少年もトラウマを露わにしていく。土屋嘉男も枝雀も導き入れられた重ね鏡として在る。『修羅』の主人公も『16歳の戦争』の下田逸朗もそうではなかっただろうか。ラスト、イデオロギーが消失した場所に立つ主人公の姿が表わされる。その力強さには、暗中模索する自由が表わされている。
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