◆『革命前夜』(Prima della rivoluzione:1964)
★ 人を操る“観念”をテーマとして、ベルトルッチはずっと描いてきたように思う。ドキュメンタリーの『石油の道』や『運河』においても、世界を操る“観念”は不安な様相として表される。『ラストエンペラー』や『暗殺の森』の主人公は或るイズムに翻弄される。他のテクストにおいても、そうである。彼が仏陀に興味持った理由がなにか分かるような気がする。“観念”への問い。
★ ロッセリーニとパゾリーニ以外を伊太利亜監督と認めないと言うベルトルッチであるが、彼が描く女性はアントニオーニの女性ととても似ている。未知に不安を抱く女性だ。しかしながら、アントニオーニの女性と違って、未知に関心も寄せている。『殺し』のラスト、大きな目のMarisa Solinasは未知に恐怖をあらわした。大きな目は『革命前夜』のAdriana Astiが引き継ぐ。ジーナは未知の地パルマでの触覚がこのテクストの求心力となる。我々は愛を触覚する。愛=エロス=生の前では、ブルジョワもシネマも、そしてイズムも退屈なものでしかない。女性の眼差しは、『シェルタリング・スカイ』のデブラ・ウィンガーにも『ラストタンゴ・イン・パリ』のマリア・シュナイダーにも、全てのベルトルッチに受け継がれる。
★ 映画館からファブリッジオが戻ってきた家の中でのシークエンス、ジーナと鏡に映る彼の横顔がマーロン・ブランドにみえた。ベルトルッチにはカザンがあるのかと思った。愚直で生意気で、内面に暴力が埋まっているところはとても似ている。『ラストタンゴ・イン・パリ』はそうしたベルトルッチの切望だったにちがいない。
★ オイディプスはベルトルッチがパゾリーニに影響を与えたのか。このテクストにおいて既に、父殺し的なものもインセストも表されている。これらは後のベルトルッチに様々な形に変わって現れるものだ。
★ 前半の、本筋とは関係ないかのようにもみえる出来事の即興性、あるいは反復やジャンプカット、横移動にゴダールを感じるけど、甘美なメロもゴダールからの影響なのかと思ってしまう。ベルトルッチがあらわすメロディの方が私的にはフィットする。カメラをバンバン振り回すスコセッシと同じように、ベルトルッチは移動ショットを操りまくる。ベルトルッチのショットは気持ち良い。ストラーロと組む前から、こうした絵は彼にはあったんだ。
★ ベルトルッチはもともと好きだからか、これら2つのテクストはゴダールとパゾリーニに比べて、スッと入っていける。ベルトルッチの主人公たちは複雑で不安をかかえ持っている。それに比し、ゴダールとパゾリーニの主人公はシンプルにみえる。天真爛漫に無垢だ。パゾリーニの主人公は綺麗さっぱりに天真爛漫であり、粗野である。それは生の三部作のよく笑う無垢な少年たちだけではなく、『ソドムの市』の登場人物たち全てにも言えることだ。『テオレマ』のテレンススタンプもたぶんそうだろうし、『豚小屋』の豚に恋するピエールレオもそうだろう。オイディプスもそうだ。ゴダールの男性主人公も粗野で無垢な青年たちだ。不安を抱え持った無垢であるが、複雑な心模様を持っているようにはみえない。もっと素直だ。男性を翻弄するかのような女性主人公は、そんなことはなく、女は女である、女はバカである、かのように無垢である。なにも知らない天真爛漫な彼女たちが、テクストでなにかを学習していく。彼女たちはテクストの求心力となり、我々をセンス=知るにいざなう。ゴダールとパゾリーニの無垢に比し、ベルトルッチの主人公たちは妙に複雑すぎる。
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