『二郎は鮨の夢を見る』(Jiro Dreams of Sushi;2011)
修行は人のもつ個性をころしてしまうものなのでないかと思ったりするものの、これみていると、日本人のそれは、できるだけ素直に向かうためのもの、清さに近づくためのものなのかと考え変化してくる。素になり見分け極める。それが二郎の世界なんだと感ずる。このデクパージュにモナドロジー的な素を感じ、寿司というものの極みを表しているかのような感覚におちいってくる。それにしてもやはり、ほんものには勝てないなぁ、やはり素の姿は『ビル・カニンガム&ニューヨーク』の最終盤の2つの質問に答えるビル・カニンガムでもそうだったけれど、演出ではできないもの出しているなと思う。まいった、まいった、と思うものの、とは言えこれさ、このテクストさ、人工めいてもいる。それが狙いなのかもしれないけれど。
民俗学者/アーティストはその土地に行き、同化し、他者への眼差しを実直に生み出す。しかしながら、ここに表される人々はなにか禅僧か侍にみえてしまう。終盤に人間的な笑みが出てくるんだろうと観ていると、やはり出てくる。二郎はやっと笑顔をみせる。作り手は耐え忍び、おしんとなって、それを表すのを待っていたかのように。恣意的にみえる。音楽もグラスのようなサウンドが出てきて、なんだか『コヤニスカッツィ』にも感じられてきたりと、恣意的な操作を感じてしまう。でもそれが現代的なドキュメンタリーなのかとも思ってきてしまう。
コンストラクティッド・フォトグラフィの時代において、パゾリーニのドキュメンタリーやゴダールのテクストの方にけれん味ない人間味を感じてしまう。『二郎は鮨の夢を見る』、ゴダールかパゾリーニがやればどうなったのかなと思ったりすることは決してなかったんだけれど、キューブリックやカサヴェテスがやればどうなっていたのかなと、このテクストの映像センスがそう思わせたからなのか、極めたアーティストが極めたアーティストを撮ればどうなるんだろうかと思ったりもする。それにしても二郎さんのあの空間での出来事はインターラクティヴなアートなんだな、舞台なんだなとなにか能に響いた。
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