ゴダールパゾリーニ覚書1
『気狂いピエロ』ではダイナマイトを顔に巻き付け乱暴にも「永遠」と宣い爆発する、或いは、『勝手にしやがれ』では息のつく間もない動きのなか、息が途切れるとき「最低だ」と言ったりする、そうであるものの、ゴダールにはよく言われるような愛の敗北が表されているとは思えないのである。エロスは常に全編、表されている。喪失が全編に漂うのはたぶん、ガレルやユスターシュの方なのである。
現代のホメロスは、生=愛であるエロスの叙事詩を語らしおん。この暴力的なまでのパッションは男性的なものである(ロメールは女性が見ても、なんでこんなに女性の気持ちが分かるの?的に女性性に溢れ、リヴェットはいじわるに(しかしアイロニックなものではなく)女性的なものがあるけれど男性性もいさかいに露である。3人ともロマンティストであることはかわることなし)。
ゴダールパゾリーニ覚書2
ゴダールのパッションはいかに表されるのか。男性において、向こう見ずなパッションが表される。野性的で、インテリで、道を見失いがちで、ロマンティストで、ユーモリストで、アイロニックに世間に斜を構え、地団駄踏んで駄々をこねるダダイスト。彼は自由の場所を探している、ってより、こうした日本人から見るペシミズムに満ちた希望が表されるのではなく、彼はきっと自由なのである。なんともまー、ムッシューは植木等以上に無責任男なのである。ゴダールだけでなくさ、フランス映画みると、度合いこそ違えこうした男性が数多く表される。フランス人の考える自由は、日本のコモンセンスからみれば少々違ったものにも見えてたんだけれど、これってお国柄だったんだ、とも思えてくるようになる(勿論、仏蘭西国内ではそれをいろいろと議論されているのではあるが)。けど、よくよく考えれば、男性って、国境を超えこうしたものなのかとも思えてくる。ディーエヌエー的にオトコは皆、ダダイストなのではなかろうか。
一方、オンナはゴダールにおいてオシャレである。ゴダールが描く女性は無知の知だ。そうした理性をもつ。彼女たちは素朴な疑問のなかに生きている。ヴォーグ的に政治学で言えば、アンニュイに不安なのだ。ペータービュルガーはアヴァンガルドの美学において、アンニュイは大事な要素だと仰っていたが、男性主人公(ないし彼に同一化するオーディエンス)にとって、彼女は重要な対象要素なのである。そう言えば、アンナカリーナもジーンセバーグも初期の女性主人公たちのほとんど多くが、Jフォンダよりも後期の彼女たちよりも、明確にアンニュイに無知の知である。彼女たちはBB的に危険な悪女なのである。しかし、軽蔑されるべきはオトコの方。知をかざしながらもロマンティックすぎる。BTW, 彼女が悪女であるのなら、『男と女のいる舗道』はオーディエンスである我々に、アヴァンガルドを喚起/歓喜させる装置性があるのかもしれない。危険だ。その危険が、ゴダールの、特に初期においてであるが、彼の魅力なのかもしれない。
個が重要なフランス映画であるが、それに対して、イタリア映画においては鉄道員、アマルコルド、若者のすべて、青春群像、とだけではなく、ヴィスコンティの(特に後期だろうか。The Dammedだって家族ものである)、フェリーニの、ナンニモレッティの、ジェルミもデシーカも、それにスコセッシもイタリア系に、家族や友人の関係性が描かれているやんけい。パゾリーニだって、家族映画というにはグロすぎるが、『テオレマ』や『豚小屋』、それにオイディプスだって家族の絆がディープに表されているし、もっと大きな括りでの共同体社会でいえば『ソドムの市』や『アラビアンナイト』もそうであり絆社会がおおく描かれている(ロッセリーニは家族を表していても、家族系ってより、大きな括りでの共同体社会が表されている)。無縁社会が叫ばれるなか、こうした絆は大事であるとは思うものの、このお国柄の、どーりでファシズムに取り入れられる集団的無意識を感じざる得ない、そうした恐怖も感じてしまうのである。で、日本だけれど、邦画史をみても歴史をみても、カンツオーネ好きを考慮しても、日本も伊太利亜もお互いベリー シミラーではないかっ!コワくなるのであったっ。
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