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2020年06月09日22:29

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たかが世界の終わり




『たかが世界の終わり』
ストレートに自身の言いたいことを言いたい放題のイメージのフランス人も、気遣いやわだかまりで言えないとかあるのか、あるだろうな、人間だから。普遍的だな、となる。ドラン的には自伝的要素ももしかしたらあるのかもしれないし、ホンを書くときはその人物が何者かというのを考えては書くのだろうけれど、Mommy/マミーのカイラもそうだったけど、人物描写においてスケッチ的に描いているところがあるように感じられる。あるがままにそれを描写、というネオレアリスモやヌーヴェルヴァーグな感じというよりスケッチ的描写。アレンが夫たち妻たちにおいて、本当は好きなんだけど、なぜか自分ではなく知人を紹介してしまうヒトがいる、なぜだか分からないけど、と言っていて、その作品ではそうした人物たちを表していたけど、なるほどな、と思ったことがある。彼は喜劇から出発したのがあるからだろうけど、いろんな人たちを普段から観察していて、おもしろいなと思ったりするのを作品に描いたりするとこあると思うんだけど、それをなぜするのかという心理的根源までは深読みはしない(しても、彼が脚本書くうえで彼がキャラにおいては思うがままに書くのであり、観察した対象の心理を紐解くわけではないだろう)。そうした感覚でのスケッチ描写、でもって、人の多くが自分や他者にそうした行為あることを理解できるがゆえ感情移入してしまう。ドランも同じように感じられるのだ。ドランはそうした感覚の日常の描写が優れているな、となる。そしてそれは、スケッチ的であるがゆえの、その表層性ゆえ、映画にはとても適しているのである。

PS
主人公の兄の最終盤に母や妹を見る視点ショットに兄の反応を理解させ、次のアクションとそこから続く人物たちの心理的不条理にこちらもついていけるようついていかせるとこがあるけど、あそこが心理的描写といえば、そうであるようなとこあるのが感じられるけど、全体的にはじっくり、それも表情をとらえるかのようなクロースショットの多用で、客観的にカメラアイが切り取る感覚である。兄が帰れと言うシークエンスも、皆の位置関係をはっきりさせないままの顔のクロースショットで、目線で人物たちの位置関係がどんどん理解できてきて、でもって兄と奥さんの手を握るとこ、そしてほどくとこがあったけど、あそこはおもしろかった。


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