85年12月15日、日曜日昼より東京・大田区の池上本門寺において、63年12月15日、暴漢に刺され不慮の死を遂げた力道山の23回忌の法要があり、馬場と猪木が出席。
馬場の全日本プロレスからは鶴田、天龍、タイガーマスク、グレート小鹿、大熊元司ら選手が多数参列(全日本プロレス所属の百田光雄は百田家として主催者側に回る)しましたが、新日本プロレスからは猪木と星野勘太郎が参列しています。
馬場、猪木ともに終始にこやかな表情で関係者と談笑していましたが、やはり両雄の顔合わせになると硬い表情になっていました。ただ、焼香の際、猪木が馬場に「どうぞ」と先に順番を譲っており、年長の馬場に気を使っている場面が見受けられました。
最後に、マスコミの要請に応え、力道山の墓前で馬場と猪木がツーショットで写真に収まり、その写真は東京スポーツで大きく取り上げられた他週刊プロレスの表紙を飾りました。
その席上、馬場と猪木の両巨頭の間で会談が持たれ、選手引き抜き防止に関する協定が結ばれました。84年から始まった新日本プロレスと全日本プロレスの「第二次レスリング・ウォー」は新日本プロレスの内部分裂もあって全日本プロレスの圧勝。
長州力、マサ齋藤、キラー・カーン、谷津嘉章、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇、永源遙、栗栖正伸、保永昇男、新倉史裕、仲野信市、笹崎伸司のジャパンプロレス勢、ラッシャー木村、ダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミス、メキシコUWAからペロ・アグアヨ、ベビー・フェイス、フィッシュマン(85年に新日本プロレスに出戻り)、ブラソ・デ・オロ、ブラソ・デ・プラタらが新日本プロレスから全日本プロレスへ移籍。
逆に全日本プロレスから新日本プロレスへはブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ、ドスカラス、ケンドー・ナガサキ、越中詩郎が移籍、上田馬之助がUターン参戦。(81〜82年の第一次レスリングウォーによる移籍選手は除外)
超大物ブロディの新日本移籍はありましたが、多勢に無勢で83年のタイガーマスクブームの時までは6対4位で新日本プロレスが優勢でしたが、85年には3対7位に全日本プロレスが逆転しています。引き抜き防止を申し入れしたのはおそらくは新日本プロレス側であり、常時40人前後の選手を抱えてリング上が飽和状態になりながらも客数が決して倍になった訳ではない馬場がこれに乗った感じでした。
後日、新日本プロレス側は坂口副社長が窓口となり、正式に引き抜き防止協定が書面化されています。なお、新日本プロレスを退団したスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斉藤、高野俊二のカルガリー・ハリケーンズに関しては改めて新日本プロレスと全日本プロレスの間で話し合いが持たれ、翌86年3月末の3人の新日本プロレス、テレビ朝日との契約が切れるまでは全日本プロレスのリングには上げないということで合意に達しました。
当日夜にジャパンプロレスが後楽園ホールで設立2周年記念興行(観衆3,400人超満員発表)を開催。ジャパンプロレスvsカルガリー・ハリケーンズの3大シングルマッチが行われ、メインイベント(60分1本勝負)の長州vsマシンは16分48秒、長州の反則勝ち。
セミファイナル(45分1本勝負)の小林邦とH斉藤のシングルマッチは11分47秒、H斉藤がリングアウト勝ち。谷津vs高野俊戦は10分47秒、谷津が片エビ固めで勝ちました。
その他の試合は寺西&永源組vsマイティ井上&大熊(全日本)組は10分40秒、大熊が永源を首固めで破りM井上&大熊組が勝利。保永と渕正信(全日本)は13分59秒に両者リングアウトの引き分け。
栗栖はハル薗田(=マジック・ドラゴン、全日本)に8分29秒、逆さ押さえ込みで敗れました。ジャパン勢同士の新倉vs仲野は18分55秒、仲野が首固めで勝ちました。
第1試合では笹崎がベテラン百田光に5分13秒、体固めで敗れています。
長州らジャパンプロレスは全日本プロレスからの「完全独立」を狙って動いている時期であり、ジャパンの後楽園ホール大会が行われた翌週の12月22日にはTBSで午後8時から長州の特番が放送されています。
しかし、TBSは国際プロレスを放送して失敗した経緯があったことからこれ以上の話は進まず、完全独立への道は頓挫しました。
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