『裸の十九歳』
裸の島から十年後に裸とつけるぐらいだから、けっこう製作には特に思い入れがありやったのかな、と思っていた作品だけれど、昭和への思い入れが欠けてきたときに解説やあらすじ読むと、なにかいまひとつ観る気がなくなっていたときに、おフランスでも御中国でも御昭和でも御EDMでもなく、それだけの一つの方向に偏らずに多様性もってやろうとして観たのだけれど、逆に先入観もたなかったからよかったのか、おもしろかった。観始めると、時代的にATGっぽいな、シンドーはやはり同世代のクロサワも後の世代のヒトたちも取り入れるのうまいな、とか、ビンボーだから悪が生まれる、とはなんかこの昭和時代的で極論だな、とか、これは不条理というより我儘症候群なのでは、とか、ビンボーと理不尽は、昭和にあったテーマだな、ショーケンの映画とか三ツ木清隆が難聴者で電車内で理不尽に大人から叩かれる映画あったな、とか、昨今あった教師による教師のいじめ、どこにでもある理不尽だな、とか、ルポルタージュ的な進め方、シンドー凄いな、イマヘイやワカマツより先にいっていたのか、とか、彼からすればずっと後の集団就職世代をたんたんと描写的に描きながら、なんだかリチャードブルックスを取り入れているのか、でも乙和信子の大正晩年か昭和初期を表すときは新藤兼人がその時代を知っているからしっくりくる感じで描けナレーションが入ってのか、とか、原因の究明、その根源的なものを探る、とか、乙和信子は巨乳なんだな、とか、ここ数年はエロス+虐殺で知ったけど以前は水漏れコースケとたけしの風来坊でしか知らなかった原田大二郎はここではマーロンブランドやモンゴメリークリフトからの反抗的な主人公像の影響か、けっこう存在感あるアクター、とか、あれこれ思いながら観ていたけれど、なんやかんやいっても曳きこまれていく。シンドーの革新性はエロスかとってよりも、ワカマツが曳きこまれるように、そのROCK的なところにあるんだ、と、おもわず唸る。イマヘイの学者的なまなざしに比すればシンドー、まさにロックしている。原因の究明とか、ヒューマニズムとはなにか、そんなのは触れることなく、作品は己の姿をさらけ出す。言わずもがなに、誰でもないシンドー、凄い作品でした。この作品、言葉で表す以前になによりもロックしている。
なにより驚いたのは、スコセッシはイマヘイをマスターとしてよく讃えるけど、原田大二郎が正義の最後の銃弾を撃つときとかはタクシードライバーで、エクストゥリーム・ローアングルでケリを入れるシーンはレイジングブルで、表される精神性はミーンストリートであり、観たことあるな、ではなく、確信犯的に、観たに違いない、で、イマヘイよりシンドーを賛美しろ、である。スコセッシはこの作品を何度も観ているはず、と思わせられた。
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