『ええじゃないか』
緒形拳の有終の美はQoolだったけれど、その美学はけっきょくサムライとしてのそれであり、クールに華散らす。自由にはなりえない。その虚しさが、この作品のすべてで表される。自由のオンナ桃井かおりはこの寸止めに合わなかったかもしれないが、イマヘイがキャストするべきだったとする大地喜和子においても、たとえ彼女が狂喜乱舞に哀しみ表したとしても、印象はあまり変わりなしなのではなかったかと思われる。突き抜けのなさがイマヘイが考えるところのこの作品に表されるべきものだったのだろうけれど、虚しさもなにもそんなことええじゃないか、という自由なものドっカーンとならず。されどやはり、作品としてエナジェティックに凄い。イマヘイしている。ここ最近アクターとしても復活の日となっている草刈正雄の雄姿、その立ち姿は姿形が阿部寛にゴク似、モデルから役者に転じる先駆者はやはりこのヒトだったのだと改めて認識する。また、このころはアクターとして華々しく活躍していた泉谷しげるも、演技力やもっている雰囲気という以上に、アクターとかシンガーとかの域を超え出るパワートゥザピープルがあることを力強く認識する。
アメリカ帰りの源次に表されるものは、イマヘイがいつも表すように、戦後アメリカ化させられようとはみ出る日本人の土着性である。イマヘイのカメラアイは土着性の抗いを表すと同時に、ヒトそのものの不思議をもまた見つめる。侍には伝統があると言われようとそれすらヒトが造り出したシステム封建制であり、大島渚なら明治以後も戦後以後すらもなんら変化のない封建制、お前らシバくぞ的なアジテーションになるけど、イマヘイはもっと客観的に人類学者的なカメラアイでそのこと捉える。それだからこそ、ヒトがつくりだしヒトを生む宗教性をもミステリアスに捉えることができる。映画を知っているマスターは、ヒトが生み出したカメラというものを使い、その持ち得るパワーを存分に発揮することでき、でもって彼のハナシの構成、そのモンタージュはそれらを素材にさらにドロ〜ンと泥臭く喜怒哀楽してみせることできるのである。システムも生き方も精神も、人間が人間である限り、そんなの関係ねえ、なんでもええじゃないか、とエモーションすらも突き放すのがイマヘイ的距離の取り方である。ねっとりしてみせても、全くねっとりしていない。
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