『エル ELLE』
表象的には理解できても、人物的にはずっとは理解できなかった。最終盤の慈愛の眼覚めもなにがきっかけになったのか、パトリックの妻が夫に応えてくれて感謝してると言ったことからなのか。そこらへんはさておき、さすがヴァ―ホーベン、数々のアメリカ映画を制作してきただけあって、最終盤の流れ、アメリカンオーディエンスを納得理解させるもの表す。ブロンド女性による慈愛の表され、主人公の両親に向けた慈愛の顕れ、そして友情の回復、ヨーロッパ映画のような突き放した終わり方ではなく、アメリカ映画らしく万人に受け入れられ理解されるもの、となる。
バーナードハーマン風が流れるなか、主人公はファントマと戯れる。まさにシネマ的戯れに相応しいように、イルマヴェップ的にシネマするファントマ、レイプをレイブしながら幻影として戯れる。イザベル・ユペールは『ピアニスト』や『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』など多くの彼女の作品に表されるように、慈愛のかけらもない、すなわちエモーションがないように表されながらその実、エモーションのカタマリの如く、エルという主人公像を操っていく。人物としては理解できなくても、認識はオーディエンス十人十色に変化するもの、ユペールの名演は光り作品を逸品として奏でている。
創造主を創造するのはヒューマンである。ビーイングされながら創造を現在進行性とする。求められる創造主は逞しく優しくセクシャルに頼られるものとして、エル自身の息子やパトリックやキュルトたちは煩悩を刺激する。タブーはそうした今此処に表されるのである。理解を跳ね除け、創造主たる人間の本質が表される。フォルムはそうして現れ、造形される。『エル ELLE』、ファントムがヒューマンビーイングに表されている。
ログインしてコメントを確認・投稿する