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2017年11月05日01:09

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ゼロ年代の作品を考えるにあたって、かもしれない論

90年代は、バタイユの憤りとクリステヴァの哀しみが合わさったかのようなエモーションとしての痛み系が差延として拡がっていった。遡り、60年代に匿名的な誰かがマイジェネレーションを冒涜的にシンシアリーに歌い、ブライアンジョーンズの死後ストーンズはサティスファクションと欲望のかぎりを吐露し、ミーイズムのエイティーズが謳歌される。そして90年代の痛みがやってくる。そのエモーション、ルーザーやクリープはアブジェクションを謳わざらなければならないのであり、マイクケリーとソニックユースはiMacとGAPとタイアップしたエンタープライズが、カジュアル、というよりは、爽やかにキタナイ(それゆえに、ヒッピーのワイルドを持ち合わせてなくてソフト)、所謂サワキタというイメージを広げるイストワール/ヒストリーにおいて、伝説ではなく消失として点になる。点は涅槃で待つ。

90年代、シミュラークルがクルクルパーに理解されることによる、いかなるイデオロギーの失権により、おのおの方のデイリーライフとインナーライフが寄り沿うものが生まれる。スターウォーズにその発芽がある。70年代末、アメリカンペーポーがニューハリウッドを暗いエンディングに飽きてバイバイしたかったのはあろうとも、それはフォードやキャプラが描いた強いアメリカの復活と受け止められることはダメダメであり、ルークスカイウォーカーが活躍するイストワールは即ち、アメリカングラフィティというイメージへと回帰するような、すなわち、それはただただシミュラクルするおのおの方のデイリーライフとインナーライフが寄り沿うものなのである。フォードとキャプラが描いた人間性の回復は、スピルバーグとイーストウッドによって成されながらも、それはかつての皆が共有し分かち合うイストワール(註1)としてではなく、よりパーソナルなシミュラクルでしかないし、アルトマンの80年代の行方不明はポパイの失敗によるキックアウトというよりは、ミーイズムに内省するアメリカにおいて居場所がなくなったことによるものであろうし(コッポラの失速も風評する対象がなくなったからであろう)、アレンが作品制作を持続できたのは個人的な時代を迎えるアメリカがあったからであろうし、スコセッシも内省のアメリカであるがゆえに70〜80年代とレイジングできたのであり、ネオジオのエイティーズからその残像は確かに残しつつも、ネオコン発芽する90年代へと移り、スピリチュアルにインテリジェントデザインのそのとき、まさに彼らとおなじように、リンチとクローネンバーグは痛みがエモちゃてる時代に受け入れられ、アルトマンも70年代のアメリカではなく、90年代の痛みを携えたアメリカを反省や風評の対象にしてようやく復活ができるのである。

ポールトーマスアンダーソンやトッドヘインズは、痛み系エモにリバーズエッジするアメリカにふさわしく、サワキタなアメリカを様式キレイにしながら、その内面のダーティーを掬い取る。アイ ベック ユア パフド〜ン? そんな時代にベックとレディオヘッドがラジオから流れてくる。


註1  神は死んだという旧大陸の発見に比し、新大陸におけるオリジナリティは汝イエスなり的に超人思想に取りつかれたものであるが、契約の更新はその歴史、新しい神と成されている。ローマ帝国以来、契約の更新のたびに神も人間の都合によって変化するのである。しかしながら、神の形象、その見た目は常に、イエス、ヒ― イズあのである。


            なーんちゃって。
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